景福宮復元にセメントはあの業者
文化財庁は情報提供者に口止め、施工業者は不良施工で摘発されたことも
処罰に不服訴訟を起こして特別恩赦を勝ち取れば公共入札制限1年の処分も無し
[特売ミーナ]景福宮復元工事に伝統建築に使えないセメントを使用して摘発され、文化財庁が再工事を行った事実が明らかになりました。
文化財庁は当初、手抜き工事の事実を知らず興福殿工事に参加したある技能人がセメントの使用事実を外部に暴露し、再施工の決定を下しました。
その一方で、文化財庁側はセメント使用を暴露した情報提供者には ”もうこれ以上の暴露はしない” という覚書まで書かせていました。
文化財庁関係者は "施工会社の故意ではなく事案が軽微だと判断し特別な行政処分なしに再施工する線で完了した" と説明しました。
この施工業者は崇礼門再建の際にも不正施工が摘発され営業停止15日、公共入札制限1年の処分を受けました。しかし、実際に入札制限を受けた日は一日もありませんでした。不服訴訟を起こし処分を先送りし、待ちに待って特別赦免を受けたからです。
景福宮(キョンボクグン)の興福殿(フンボクジョン)工事過程で施工会社が復元基準を破って壁と屋根にセメント20袋の分量を混ぜた材料を使った事実が明らかになり、昨年4月から3ヵ月間、再工事を実施しました。
文化財復元基準に該当する "文化財修理標準仕様書" は、宮殿の壁と屋根に石灰と土、残り物など天然の材料だけを使うことを規定している。
興福殿は1867年(高宗4)頃に建てられた ('高宗実録'4年8月18日)。 しかし1876年の大火災で内殿の主な殿閣が焼失すると王は昌徳宮に逃げ、焼失した殿閣を復元しなかった状態で、再び1885年,景福宮に還御した。
興福殿のあった場所は,峨嵋山の北に壬辰倭乱以前は小規模な東屋ほどあり大きな殿閣ではなかった。 興福殿は景福宮の改築後,2度の火災で被害を被らなかったため、高宗が1885年に景福宮に還御した後、万景殿とともに公式的な行事と王の政務のための空間として使われた。
興福殿は内殿一郭が再建された1890年以降の記録がない。1920年昌徳宮の大造殿と熙正堂が焼失し,朝鮮総督府が景福宮の殿閣の一部を壊して大造殿の一郭を再建した。 この時、興福殿も壊されたか、昌徳宮のどの建材で建てられたのかは分からない。
景福宮復元事業を進めている文化財庁は,15年から計208億ウォンを投入し,興福殿を復元しています。
(ソウル/みそっち)
ってことでね、景福宮っていうのはニホンで言う江戸時代の260年間は焼け野原だったわけです。もちろん火をつけたのは朝鮮の民衆でしたね。ヒデヨシの頃の加藤清正が崇礼門から凱旋入城したあとに、バッカス公園あたりにあった井戸で手を洗うんですが、そのときに物見から「王宮には誰もいないで燃えている」ということを聞いています。
それまでは景福宮の中には建物が存在していて、この時に朝鮮の民衆によって焼き払われたあとは1637年の三田渡の碑にあるようなおつむごんごんのお約束で、城壁や王宮は清の事前の許可なく修理・増築を行わないことになりましたね。 いえいえ加藤清正が焼け跡を見たのが1592年ですから270年ものあいだ再建されなかったわけです。
そして景福宮は中国清の目を盗んで大院君が再建をしようとしますが、たびたびの火災に遭い、幾多の工事責任者が代わって結局は完成しなかったと見るべきでしょう。
そこの空き地だった庭部分にに総督府が建物を建てたんですが、これが悔しくてのちの1995年なって取り壊していましたよ。そのころの建物では旧京城市庁(今は図書館)とソウル駅旧駅舎が残っていますね。