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韓国では"独立運動家"の子孫は働かないのだ

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独立運動家の家族の75%が月の所得200万ウォン未満、本人より子供・孫・曾孫がより貧しく 200万ウォン未満の割合も非常に多い


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▲独立有功者3代目のハンサンチョ氏が10日、ソウル高尺洞(カンナムグ・シンサドン)の自身の住処、店の壁にかかった祖父ハンテソクの勲・褒章と独立有功者証書を眺めている。 独立軍の子孫に'稼ぐことが'のように残された食べていくための恐ろしさを一生経験しなければならなかったハンさんはこの1月、光復70年ぶりに初めて功労者の補償金を受けた。


イメージ 2[はたらけミーナ]仁川南洞区、半地下の部屋に住むチェチョンソン(76)氏は1920年鳳梧洞(ボンオドン)で、独立軍司令官を務めたチェジンドン将軍の孫娘だ。 独立運動家3代目の彼女の月収は、基礎老齢年金20万ウォンと基礎生活給与30万ウォンだけがすべてだ。 冬の暖房費は2万ウォン、夏場の電気料は900ウォンを超えていない。
ソウル高尺洞で10平方メートル(3坪)の大きさの店をし、八十年の一生を風の静まる日もなくいられたハンサンチョ(79)氏の祖父は、独立運動家ハンテソク先生だ。
独立運動家の3代目である彼に残ったのは保証金3,000万ウォンに月30万ウォンの家賃を払う借家と小さな店、後になって今年1月から初めて受け始めた独立有功者の子孫年金156万8,000ウォン(月額)がすべてだ。
守ってきた小さな店は昨年、道の向かい側のコンビニが入ってき、毎月赤字だ。 それでも二人の苦しい生活で支えになったのは独立有功者の子孫という自負心一つだった。

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▲独立有功者世帯別月個人所得と2015年世帯別の最低生計費の比較。


本紙は光復70周年を迎え、最初に独立運動家と子孫たちの集まりである光復会の会員6,831人全員を対象に韓国リサーチとともに生活の実態に関するアンケート調査をした。 調査には生存中の、独立有功者26人をはじめ、配偶者32人、子ども(2代目)469人、孫・孫娘(3代目)509人、曾孫(4代目)53人など計1,115人が参加した。

調査の結果、カン氏やチェさんのように一生を経済的困難に直面している人が大多数だった。 '独立運動をすれば3代が滅びる'という韓国社会の恥ずかしい恥部が実際に確認されたのだ。

独立有功者家族らの経済的困難は相当だった。 月個人所得を分析した結果、200万ウォン未満の区間に全体75.2%が集中していた。 100万ウォン以上200万ウォン未満が43.0%で最も多く、50万ウォン以上100万ウォン未満が20.9%、さらに、50万ウォン未満も10.3%だった。 さらに、3代を超え、4代後の子孫たちにまで貧乏は貧しさていた。 月個人所得を世代別に見れば、200万ウォン未満の区分に独立有功者本人(38.4%)より子供(72.2%)と孫(79.2%)、曾孫(62.2%)の割合がもっと高かった。 100万ウォン以下の区間に分けて見ても独立有功者本人(23%)より子供(25.3%)、孫・孫娘(37.9%)、曾孫(24.5%)の割合がもっと高かった。

アンケートに参加した多くの回答者らが年金生活者という点を考慮すれば、彼らの所得水準は今年、韓国の4人世帯の最低生計費(166万8,329ウォン)と似ているか、より少なかったわけだ。 子孫たちが受ける年金(52万~188万ウォン)を除けば、純所得は今年1当たり最低生計費(61万7,281ウォン)にも及ばない貧困層が大多数といえる。

個人総財産も国民平均をはるかに下回った。 5,000万ウォン未満が28.3%で最も多く、次いで5000万ウォン以上1億ウォン未満が21.1%、1億ウォン以上2億ウォン未満が20.9%の順だった。 これは、韓国銀行と統計庁の'2013年国民貸借対照表作成結果'で現れた韓国世帯当たりの(2.61名基準)純資産(3億3,085万ウォン)にもはるかに及ばない数値だ。 このような結果は、主観的階層認識にもそのまま影響を及ぼしていた。 回答者の中で、自分が'下層'に属すると答えた比率が73.7%を占めた。

経済的困難は教育水準で、連結された。 回答者のうち高卒が25.7%で最も多く、続いて、小卒(22.8%)、中卒(12.8%)、無学(4.7%)の順だった。 教育機会の剥奪がこれらをわが社会下層に追い込む主な要因だったのだ。


働かないけどもっとゼニをよこせ?

報勲政策の中で最も必要なことを聞く質問では報勲年金や対象の拡大が63.1%で最多であり、続いて、医療サービス(14.3%)と住居(10.0%)、教育(3.1%)支援が後を継いだ。 これと共に直接独立運動を展開した生存、独立有功者が現在83人で、平均年齢は91歳だった。 これらが歴史の表舞台から消える日もいくらも残っていないと見ることができる。 政府が独立有功者に対する処遇に速度を出すべき必要性が高まっている所以だ。

バンハクジン民族問題研究所事務局長は"独立有功者の子孫の経済的困難は解放直後から実施されるべき報勲政策が1962年まで見送られたことから理由を見つけることができる"、"その時から始まった貧乏の輪がまだ続いた結果"と分析した。
今回の調査は東亜(トンア)日報が先月6日から31日まで光復会会員全員に郵便を通じ、アンケートペーパーを送って、このうち返信した1,115人の答弁分析を韓国リサーチに依頼して行われた。


(翻訳:みそっち)



働かない伝統とでもいうのでしょうか、とにかく韓国人は働くことが嫌いです、働くということを軽蔑しているみたいですが、お金への執着はこれまたスゴイですよね。
あのセヲル号動乱では100万人も動員したデモがありましたが、そんほとんどが無職者であり補償金の増額と支給範囲の拡大に賛同した人たちでした。

彼らは働かせても出来が悪いから低賃金なわけです、仕事のできないアルバイトくんに賃金を払うのが普通じゃないだけのことです、それでも多くの韓国人は「自分は生まれながらに優れた韓国人である」という勘違いで賃上げなどを要求するのですから始末に負えないとはこのことでしょう。

1962年からの報勲制度とありますが、これは朴正煕の時代になってからということになります、では、”朝鮮戦争で死んだたくさんの韓国兵の死傷者”への報勲ってどうなっていたのでしょうか。参戦した兵隊たちの年金みたいなものはどうなっていたのでしょうか。


年金を受け取っていない朝鮮戦争従軍兵士

これね、韓国は戦場になった国だけど韓国軍っていうのは”無かった”から、誰も遺族年金を請求しようというひとがいなかったのですよ。

韓国軍は1950年7月18日に作戦指揮権を国連軍に渡して”指揮命令系統のすべてが解体”されたのです、ただの荷役部隊として大砲の弾を運んだりしていたのです。それでも流れ弾とかで死傷者は出ますが、当時の韓国兵は国連軍の雇員でしたから韓国政府は補償を拒否していたのですね。

たとえば仁川上陸作戦で、韓国海兵隊部隊の活躍>>なんていう香ばしい内容の記事を見かけることがあります。 ニホンのヨコスカから米軍の輸送船に乗って仁川まで行ったという与太話ですが、米軍司令官とソウル戒厳軍司令官の会話の中に”韓国兵の着ているものを米式に変えたい”というのがあります、ソウル戒厳軍司令官が出てきますから”ソウル奪還”の後の話のようですが、そのころまで韓国兵はニホン軍の被服廠に残してあったニホン軍の軍服を着ていたわけです(鉄砲が99式だったのは知ってるでしょ)
米式の装備が行き渡ったのは1952年になってからでしたから、戦争は休戦交渉が進んでいた頃です。(1951年の中共軍参戦での後退のあと同年4月のソウル再奪還の直後から停戦交渉が行われています。)

そこまで出番の無かった韓国兵に銃を持たせて前線の守備をさせたらヤジにあわせてドンパチ始めちゃったりしてました。停戦交渉がどんどん遅くなった理由は韓国兵に鉄砲を持たせた為だったんですよ。

李承晩を追い出したあとの朴正煕は圧倒的人気の元で、軍人の地位向上として報勲制度を始めたわけですが、これが自己申告制だったのですね、なにしろ”韓国軍が戦闘で勝利した”という記録はどこにもありませんでしたから、それを”作りだす”ことから始めたのです。 


陸海空軍が競って戦果を捏造した1960年代

あの”ムスタング10機の空輸”という与太話では元ニホン陸海軍のエース級パイロット(韓国人)が大活躍したことになっていますが、ニホン海軍は朝鮮人を採用しなかったので”ゼロファイター”だった韓国人パイロットというのは完全な創作なのです、ええ、加藤隼戦闘隊だった朝鮮のひとがいましたがそれを言ったらゼロファイターが嘘なんですからホントは半分以下ってことですよね。(ムスタングを空輸したのは米軍の中尉の指揮する米空軍の飛行隊でした。)

開戦初日に釜山沖で北朝鮮の上陸部隊の乗った輸送船を撃沈したという”大韓海峡海戦”という与太話では6月27日付けの国防部発表がそのまま記事になったものですが、当日の新聞には”海州市占領”という見出しのあとに出てくるでしょ、これは完全に誤報なんですが、裏付けのとれない当時の呼称の”釜山沖海戦”についてはその戦果の確認が1962年になって初めて行われました。確認といっても当時の白頭山艦の乗組員名簿さえ存在していなかったんですが、そういう事実を創作して”朝鮮戦争で韓国軍大活躍”なんていうホラ話を韓国の各軍が競っていた時代があったわけです。

これで朴正煕の時代に朝鮮戦争当時の軍人の活躍が捏造されたわけですが、そうなると怒りが収まらないのがそのあとの世代となる全斗煥みたいな世代の軍人で、朴正煕は活躍の場としてベトナムを選んだというあたりは読者さんの方が詳しいですよね。
(ぺク将軍などが外交官になったりしたのを見て全斗煥の時代には退役軍人を同級のお役所公務員を同じにするという法令をだしていました、軍曹⇒教頭とか)


朝鮮時代の庶民>>>こんな文字列を韓国観光公社のサイトで見かけました、朝鮮時代に庶民っていうのがいたのでしょうか、これは尺度が違うので一概に比較できないのですが、ニホンの江戸時代の庶民の代表としては弥次さん喜多さんでいいと思います。ニホンでは東海道などが整備されていたので歩いて伊勢参りなわけです、貨幣制度もしっかりしていましたから”胴巻き”に寛永通宝なんかを入れて歩いて旅をしていました。行く先々ではお泊りする楽しみもあったりするというのがニホンの庶民ですよね。 しかし、朝鮮には庶民はいませんでした、人口の5%ほどの両班とその他の奴婢だけでしたから庶民と言えるのは、没落した両班が奴婢でもなく自分の畑を耕していたのを言うことができるかもしれません。
元来、朝鮮には道(街道)がありませんでした。物流が無いので貨幣制度も発達しなかったようです。ニホンでは年貢がコメであり町人や職人には税が無かったわけですが、朝鮮ではほんの100年前まで奈良時代みたいな租庸調が残っていたようです、その中には軍役や賦役があって、それが嫌で逃げ出すものが非常に多かったという記録が残っています。(大抵は城壁の石積みの修復だったらしい)

貨幣制度が無くて、名所が無かったので弥次さん喜多さんのような知識人がいたという記録はどこを探してもありません、そんな読み物を読む人も書く人もいなかったという文化の停滞期が500年も続いた朝鮮時代なのです。
しかも朝鮮は関ヶ原の20年後の清との戦いで敗北してます(丙子の役)。結末はあの三跪九叩頭の礼ですが、このときの条件のなかに、”城郭の増築や修理については、清国に事前に承諾を得ること。”というのがあります。(美女2000人というのは割と最近創作されたウソです)
これは南大門などの門や宮殿を意味するのですが、清国はただの一度も修繕に許可を与えていません。そのため城門は作られた当時のままスラム街の中に取り残されることになったり、王の宮殿だといわれる景福宮なども建築当時のまま一度も修繕されることなく荒れ果てていきました。
あまりの荒れ果てぶりで朝鮮末期の王は宮殿に住むことを諦めていたのですね。

朝鮮時代末期の最近の歴史解釈のなかに出てくる登場人物で”庶民出身”という人物は見当たりません、あのテロちゃんの安重根は両班の長男だそうですし、ほぼすべての登場人物が両班階級との関連を示しています。身分詐称が朝鮮時代末期には大流行したこともあって、韓国では”庶民”というものが出来たのがここ100年程度ということになります、同様に、”三代前はお百姓”っていう現代の韓国人も誰ひとりいません。
よほどの田舎に行っても、”えらいお役人の子孫”を名乗るのが普通です。

現在では韓国のほぼすべての家庭が”両班階級との関連を示す手がかり”を持っていて祭祀では見ず知らずの他人様を先祖として拝んでいるのです。


アイスを食べながら読み直したい過去カキコ
 


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