日本箱根駅伝で''たすき''の価値は?
2009-01-15
韓国では受け入れられない特異な文化、他人の成績の事情でスタートが遅くなる?
日本で毎年1月2~3日開催…''人生は共にすること''意味認識させてくれる
[スポーツミーナ]駅伝とは一体なにだろう? 駅伝とは、次走者が走者から襷(tasuki)を受け取るマラソンリレーをいう。 ''駅伝''(ekiden)とはstation(駅)とtransmit(伝)が合わさった言葉で、駅伝は、マラソン大国日本で初めて由来された。 ※韓国語では駅伝のハングル訳の意味は逆転である
駅伝は1917年、読売新聞が日本の東京首都移転を記念するため、3日間京都~東京508kmを走る大会を開催したのが始まりとなった。''駅伝''という言葉は当時の読売新聞土岐善麿社会部長によって作られた。 その時日本には道端に沿って駅が一定の間隔で位置していたが、駅伝走者たちは、駅と駅の間を走ってきたからだ。 特に箱根大学駅伝は駅伝の花だ。韓国に居住する日本人留学生トヨフクマイさん(32)氏は"TVで箱根駅伝マラソンをよく視聴した。 多くの人が一緒に力を出して走りながらお互いがひとつになるのが魅力的だ。 走りながら自分の限界を超える人たちの姿が感動的"とした。
箱根駅伝は、日本で最も有名なスポーツイベントで、毎年1月2~3日の二日間、日本の東京~箱根を往復する大学駅伝競走(読売新聞社開催)だ。 1920年1回大会が開かれ、今年85回目を迎えた歴史深い大会。戦争直後も選手たちはたすきを引き続き受けて、箱根山の頂上に向かった。
出場資格は関東学生陸上競技連盟(東京、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、神奈川など6県)所属の大学チームだが、熾烈な予選を経て1月2~3日、本大会に参加できるチームは10ヵ所。総距離は217.9km(往路108.0+帰路109.9)で、1~10区間を10人の走者が続いて走る。 10位以内に入れば翌年の本大会出場権が与えられるため、競争が熱い。 ※このへんはニホン版Wikiの引き写しらしい
大会期間中、町の中には応援の波にのまれている。 参加大学の応援部は大型旗をしきりに振って声を限りに応援歌を歌い、道路を何重にめぐった市民たちは力強い拍手で選手たちを督励している。 87年からTVで日本全土に生中継される箱根駅伝マラソンの視聴率は25~30%で、日本の年間TV視聴率''ベスト10''常連客である。 そのため、箱根駅伝は大学陸上選手たちの夢であり、憧れ(東京)だ。
※韓国語では憧れ=東京と変換されるのも興味深い
ファン・ギャフン大韓陸上連盟専務は"日本の関東地域の大学陸上選手らはこの大会に出ようと1年を通して準備する"、"今年85回目を迎えた伝統ある大会なので優勝すれば、選手、高校で自負心が大きい。 新年連休にTVで生中継されるために学校の広報にも良い機会"とした。
実際に多くの大学が箱根駅伝マラソンで良い成績を出すためにアフリカ選手を連れてくる。 もちろん、アフリカ出身の選手たちは、日本の選手たちよりスピードが優れているために大会にはチーム当たり1人だけが走れる。 ファン専務は、"外国人選手は一種のペースメーカーの役割をしてくれる。 共に走りながらレースの全体的なスピードを向上させる"、"日本はこの大会を通じて、自国選手のスピードをアップグレードして、長距離裾野を広げる効果を収めている"と話した。
しかし、箱根駅伝マラソンの最も大きな美徳は一人だけじゃなく一緒に走るということだ。 候補たちはたすきを引き続き受けて、興奮と一体感を味わい、一つの目標に向かってみんなが全力を尽くして努力しながらも走りも心も相通ずる。 10区間のすべての選手が走らない限り、決して完成されられない闘い。人生は一人じゃ、生きられないという大切な価値を選手たちは走りながら学ぶ。
私たちが行きたい所は箱根ではない。 走ることだけでは到達できないところだ。 どこかもっと遠くて、深くて、美しい場所。 今すぐは無理ても、私はいつかその場所を見たい。 その時まで継続して走る (小説かなにかの一節)
以下略・・・・
(翻訳:みそっち)
韓国には駅伝競技がありません、過去に何度か開催されましたが、駅伝のタスキを渡すというルールが多くの韓国人には受け入れられず、いずれも数回の開催だけで消えてなくなりました。 ※韓国版Wikiでは駅伝の解説が非常に少ない
韓国には孫なんとかというベルリンオリンピックのマラソンの英雄がいるのに、似たような駅伝競技が無いのはなぜでしょうか。 駅伝の由来がニホン原産だから?それもあります、しかし韓国に駅伝が根付かなかった理由はほかにもあったのです。
他人のたすきを受け取ってから走りだすのが我慢できない
韓国では集団でする人気競技というものもいくつかあります、野球やサッカーなどの人気は時としてファンの武力衝突にもなったり地域対立の導火線の役目までしていますよね。
ところが駅伝競技では最初の走者だけが一斉にスタートしますが、あとの走者はタスキを受け取ってからスタートしなければならないという、”韓国人には理解できないルール”があるからなのです。ましてや、二日目になれば前日の成績によってハンデタイムが設けられスタートさえできないというジレンマに陥るため多くの韓国人がその時点でテレビ観戦をやめてしまうと言われています。
なぜ彼らはタスキのリレーが我慢できないのでしょうか?。これは韓国がアジア最貧国だった1970年代頃までに教育されてきた”平等な教育機会と社会的チャンス”というものにはじまっています。
親の出自や身分の上下に左右されない平等な社会こそがこれからの韓国に必要だとして時の独裁者朴正煕はいくつかの改革を行ってきましたが、特に力を注いだのが平等な教育という分野だったようです。 じゃぁ教育ばっかり重視して走るのを罪悪視したのかというとそうでもなさそうです。
学校給食のなかった時代ではお弁当持参が当たり前でしたが、どうしてもお弁当の内容には各家庭で格差が生じます、この格差を差別だと受け止めて問題の解決をしようとした制度では”弁当検査”だったり、”班食(バンチョク)”と呼ばれる、お弁当の強制混ぜ混ぜだったりしたわけですが、親に持たされる弁当には差別(格差)があってダメだという考えが現在の”韓国型食盆給食文化”になったり、お弁当の強制供出から班ごとに全部混ぜてしまう班食はその後になると”ビビンバ”あるいは”振り弁”へと変わっていったりしたのです。
韓国ではこのように格差というような差別を本能的に避けてきた歴史があるのです、駅伝競技ではどう見てもタスキを渡すだけという単純な行為ですが、韓国では、前の走者の成績を引き継ぐということに抵抗感があります。
たとえばこれは数年前に実際にあったハナシですが、韓国のある小学校の運動会で、父兄対抗のリレー競技があったといいます、たぶんバトンを使っての単純なリレー競技だったのでしょう。最初の走者が走り出しました、これは当たり前ですよね、トップが運動場を一周して次のランナーにバトンを渡したとき、なんと第二走者全員が一斉に走り出したそうです。
もちろんトップのランナーだけがバトンを受け取ってあとの全員は素手だったんだとか。
これって、つまりバトンが来るのを待てなかったのか? というとそれはそれで”韓国型行動”だと見ることができますが、待たなかった理由は、トップランナーがスタートしたのに自分だけがスタートできないのはおかしいダロっという”韓国型感情”があったものだといわれています。
とにかく前の走者から遅れたバトンを受け取るということが我慢できないとか、となりがスタートするのを黙って見ていることができないというのが”韓国型思考”の源流だと見ることができます。
※最近では400mリレーなどに特化した選手の育成でリレー競技も見直されているがテレビ観戦などでは相変わらず遅れてスタートする理屈が理解できない韓国人も多い
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班食ってなんだ?
[今日のミーナ] まぜるという文化がおとなり韓国に根付いたのはそれほど昔のことではありません、貧富の差が拡大していく1970年代になって"国民統一行動様式"が政令によって公布されたこともあり、 "まぜることは正しい"とする考え方が主流となっていきます、これは学校への弁当持参という当時の流行にあわせた広報活動が実を結んだ結果ともいえるでしょう。
※当時は弁当検査といって"白米"の弁当が制限されていた、ニホン統治時代は末端でも白米を食べていた。
年配者ってまぜまぜしないの?
韓国ではダレもがまぜまぜするかと思いきや、まぜるのがイヤという頑なな意見も厳然として存在することに驚かれる方もいらっしゃることでしょう、
これは海外生活を経験したことのある韓国人でも多くの国々で嫌悪の対象とされる文化様式の格差を知ることでまぜることを自然に拒否するようになります。
※朝鮮人は家族大勢で一つの器を使い食事をしていたので家長が食べたあとに家族が残りを食べるという儒教思想が広く残っていた
ごく普通にまぜることを強要されるのがイヤで祖国に帰らないと言いはる不法滞在者すら厳然と存在していますね
また一方で"まぜるのが韓流"だと言いしめるためにまぜるが勝ちとする意見もあるのはみみの痛いところでもあります。
被圧的欲求がビビンバを国際食にする
食料事情が改善された1990年代になると何やら起源だの元祖だのを名乗り出るものがあらわれました。
とくにWikiなどへの攻撃的記載によってビビンバが19世紀からあったものだという荒唐無稽な説まで出てきているようです。
韓国のある朝鮮半島はニホン統治時代も初期の大正期中頃までは"床食"が基本であり、昭和期に入ってニホン国民化が進むうちに伝統の床食文化はほとんど無くなってしまったが、まだまぜるという試みは無かったといわれています。
ちなみに現キタ朝鮮にはビビンバに相当する食べ方は1980年代までまったく存在しなかったし、韓国の食糧難時代の軍事政権一括弁当政策がニホンに伝播し民団総連万景峰~キタ朝鮮と伝わったと見るのが正しいそうです、キタ朝鮮では食盆での食事形式をしません、一汁三菜は陶器製の器で食べるのが普通なのです。
最近になって韓国でもビビンバ人気があり「トルソッ(岩釜)ビビンバ」(돌솥 비빔밥)と呼ばれる。なお、大衆的な食堂では石の器の代りにアルマイト等の小鍋を用いた「鍋焼きビビンバ」(냄비비빔밥:ネンビビビンパ)が石焼きビビンバより廉価で提供されているところもある。
さらに当時の焼き弁振りビビンバを再現している食堂がソウル市内にも数件あり、熱々で供せられる弁当を"軍手"で掴み振り回すことはある種の醍醐味を味あわせてくれる。
このように一般的なビビンバという食べ方がこの世に誕生したのも1970年代と見るのが正しいようだ。
朝鮮戦争の終結(停戦)と前後して未曾有の食糧難に陥った韓国では、まず最初にイモや雑穀をぎっしり詰めた弁当がはじまりました、これが1960年代のことですね、やがて食糧増産に失敗し世界最大の食料援助を受けていた1970年代になっても白米の配給は極端に制限されたため雑穀をまぜることが奨励されました、これは市中の食堂でも同様に行われ麦3割の麦飯にナムルとキムチをのせたものが広く普及するようになる、これがのちのビビンバになりました。
また疲弊した民衆の学校や職場での生活における弁当の格差をなくすために喫食前によく振るように指導したのが"振り弁"のはじまりだと見直す意見も出てきている。
学校での弁当にあらわれる格差と軍事政権下での民主化の動きにあわせて平等にするべきだという弁当の意見の中で模索されたのが"標準型弁当"であり、また教室内の生活班ごとに弁当をひところに集めてかき混ぜるという乱暴な"班食(バンチョク)"も行われたりした
※標準型弁当、雑穀30%のコメにおかずは小魚の煮たものとキムチというもの、スパムや半生卵焼きがお弁当に登場するのは1980年代になってから
班食(バンチョク)のはじまり
▲他人の分までまぜるという"韓国型並列思考"は床食が起源とも言われている、これは韓国人に多く見られる精神構造に由来する集団行動のようだ、これはまぜながら食べるのが正しい食べ方になる。
実はこの班食こそが近代韓国人の"いつまでもまじぇまじぇ行為"とリンクしてくるのだ。床食を起源にもちDNAのなかに人と同じことを強固なまでに群れてするという行動様式があるために、他人との共同歩調思考が編み出す減速型まじぇまじぇ行為は、まじぇているあいだだけ集団の中の個の一体感が得られるそいうゴキブリ集団生活にも似た発想として特筆されるだろう、すなわちマジェマジェしたあとの一体感こそが脳内平衡という金字塔であり、まじぇまじぇするほど"集団"との強い絆が得られるとも似たわけのワカラナイ行為につながってゆくのだ。
韓国の国連加入がこの間だから伝統の無い国の代表的な思い込みという"韓国型無限バリエーション"ともいえる広がりも見せている。