朝鮮の朝士視察団(紳士遊覧団)ニホンを見聞(明治14年)
用意した宿舎から逃げ出した朝鮮の使節団 その理由は
[日曜ミーナ]およそ60人からなる朝鮮の視察団は蒸気船で釜山から対馬~長崎を経由して神戸に入り横浜に到着すると汽車に乗り換え東京に到着した。東京での彼らの宿舎は当時、芝公園内にあった海軍宿舎が使われた。
朝鮮という国は太閤記や虎退治ではよく知られていたが、その実情は徳川将軍の代替わりに使節がやって来たくらいで、200年間に11回ほど行われた朝鮮通信使が最後にやって来たのはペリーの黒船来航のさらに40年以上も前のことだった。
1881年当時の朝鮮はニホンと近代条約を結んだばかりで、その前年とその前に条約締結返礼の使節がやってきたことがある。
やはり朝鮮人と言えば、物珍しい身なりをした奇行をする連中という印象があったようで、当時の主だった新聞社は連日のように彼らの見物先や訪問先を細かく伝えている。
兵舎や造幣局に銀行から税関まで盛んに各所を見学した朝鮮の視察団だったが、わずか5日でニホン側が用意した宿舎から出てしまった。彼らの行き先はすぐ近くの旅館である。
旅費に当たる交通費は全額を当時の外務省が負担していたし、海軍宿舎での食事も晩餐会とまでは行かないが、十分なものが用意されたというから旅費や食事に困った訳では無さそうだ。
旅館に宿を移してからも彼らはいろいろなところを訪問しているのが記事になっているので隠れたくて宿を変えたわけでもない。
ではなぜ彼らは外務省が用意した海軍宿舎を引き払ったのだろうか。その理由は毎朝やってくる便意である。彼らはどこにでも糞をする生活習慣を持っていたのだ。
彼らの世話を命じられた宿舎の雇員が告げ口したことが彼らをいたたまれなくしたのだ。
トイレ問題は伝統住宅で最も悩みの種であった。1896年、独立新聞に「道ばたの家の窓の外に汚物とおしっこと水を捨てられないようにして、おとなと子供が道端で大小便をしないようにして…」と書くほどであった。
1934年、朝鮮総督府は便所との戦争を宣言する。「朝鮮市街地計画令」で「居住用建物敷地内にお手洗いを設置する」と釘をさしたのだ。
朝鮮に住む彼らは朝鮮総督府が業を煮やすまでトイレ、便所、厠、とは無縁の生活をしていたのである。
道端に垂れ流すのは貧しい庶民ばかりというわけではない、朝鮮時代の宮殿には手水場 トイレ、便所、厠、雪隠、はばかり、御不浄くらいあっただろうと考えがちだが遺構などは見つかっていない。誰もが道端や軒先で力むだけなのである。
あるいはおまるに出して、道に捨てたのである。だから総督府はきれいにしようと朝鮮人にトイレの習慣を躾けたのである。
江戸時代の朝鮮通信使も事情は同じだっただろうと考えられる、しかし外国からやってくる幕府の賓客が「トイレも躾けられていない」とは当時の奥ゆかしいニホン人は記録すらしなかったのだ。
通信使の経路にあたる本陣は一日も早く次の宿場に移ってもらうことを願うし、やがて彼らの宿所は宿場の本陣ではなく街道の寺社が使われるようになりました。
理由はもちろん異文化を町民に見せないためでした。