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大韓民国臨時政府国璽はウソ

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3・1節特集 韓国人のウソ㉝
大韓民国臨時政府の国璽は、まぎれもなくウソ

大韓民国臨時政府国璽の印面は2006年に刊行された、小説「国璽」の表紙をデザインしたときに創作された Wikiの編集したのは誰よ ニホン版にまで国璽出てるし

うんうん


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[ドキュメンタリーミーナ]去る2006年のこと、韓国では制憲憲法の原本大韓民国最初の国璽が紛失したのに続いて、朝鮮時代の国璽もすべてなくなっていたことが監査院の調査で明らかになったと報じられたことがある。 


これが”韓国人に持たせておくと失くす” という伝説が生まれた瞬間であった。


その後も伝説は繰り返されており、1997年'朝鮮王朝実録'と'訓民正音解例(解例)本'がユネスコ世界記録遺産に登録されたが、そのとき発給された'原本証書'も消えた。

文化財庁は発給からわずか1年で証書を紛失したという事実を10年が経った2007年にようやく確認した後、大急ぎで再発給を受けたのだ。そのため、現在、文化財庁が所有している証書は発給日が97年ではなく2007年9月14日になっている。 原本ではないというわけだ。


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さて、ハナシを先に進めよう。

”大韓民国臨時政府国璽” を検索すればすぐに鮮明な画像が出てくる。 ご丁寧にもこの国璽の説明には『大韓民国臨時政府国璽は四方65mmサイズの玉石で作られた(高さはわからない)文字はすべて九文字で(漢字篆書体で「大韓民国臨時政府印」と書かれている。)枠内の四方サイズは52mmである。』などといった尾ひれまでついていることもある。

この大韓民国臨時政府印だが、前述のニュースの中では紛失した国璽に含まれていない。まるで臨時政府など存在していなかったかのような扱いなのである。

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▲大韓民国臨時政府の国璽捺印©イ・ボンウォン作家提供



それではニホン統治時代の、”上海仮政府” が使用したと伝えられるこの大韓民国臨時政府印、この国璽は現在、存在するのか?  不幸にもそれもやはり 'ない' なのか。
それとも存在したことすら無いのだろうか。
※”国璽捺印©イ・ボンウォン作家提供” って何だ? 提供??



まず、あるべき国璽がどうなったのかについて最近になって主張された説によればこのようになっている。

「1951年朝鮮戦争中1・4後退が始まると、国璽を含めた臨時政府の公認箱を臨時として保管していた人が京畿道安城のある家の地下に埋めて置いていたが、避難して戻って来たら、奇妙にもよりによってその場所が空襲を受けて、印章らが皆崩れてしまった」という。 



疑問だらけの臨時政府の国璽と文献の'被災'

"この印章は手に入るほどの小さな箱だが、6・25事変前までは大韓民国臨時政府の国務委員だったチョギョンハン志士が自ら保管していて事変の時、避難をするため、ソウルを去り、その時恵化洞(チョンノグ・ヘファドン)に住んでいたチョテグク(趙泰國)青年に任せた。その後、1953年6月にソウル新堂洞に住む柳善基青年が、チョ志士が一時滞在している全州市(全州市)の居所に来て報告することを、1・4後退の時に自分も二番目に避難をするようになり、旦那様が預けた公的な物品と私的な物品をタイ軍と分担して保管することにして、臨時政府公認箱と他の物品半分を自分が持ってソウルを発っており、それらを京畿道安城郡町に住むある友達の家の地下に埋めてしたら、その後、奇妙にもよりによってその場所がロケット弾空襲にあい、印章がすべて灰に変わったり、壊れてしまったとした。" -大韓民国臨時政府の国務委員だったチョギョンハン(1900~1993)志士が1953年10月に書いた'大韓民国戦の臨時政府文献被災顛末記'(大韓民國前臨時政府文獻被災顚末記)だ 

この ”大韓民國前臨時政府文獻被災顚末記” という文書あるいはその名前が知られるようになったのは実は1953年ではない。書いたとされる1953年時点でのチョギョンハン(趙韓、1900年 7月30日1993年 1月7日は臨時政府の金九らと一緒に1945年秋に個人の資格で帰国したらしいが、韓国版Wikiで紹介されている彼の立場は明らかに小者である。

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「1951年1月4日、国連軍がソウルを撤退するようになると、両親二人だけを家に残して釜山に避難した。 そして再び上がって見たら、その間にこの家が焼夷弾を迎え、倉庫が完全に火に焼けてなくなったし、その中に置いた保管物も当然その時に全部消えた。」

「愛国志士チョギョンハンは臨時政府の物品を保管していたチョナムジク住宅の諸情況が焼夷弾と一緒に火事を起こす砲弾を受けたようではなかったが、家族の言葉を疑うことも、それ以上追求することもできない状況だから、深い心の傷だけ抱いて帰ってきた。」 -大韓民国戦の臨時政府文献被災顛末記'より

以上が国璽をはじめとする臨時政府の貴重品と独立運動史料として申し分なく貴重な臨時政府諸文献が世の中から消えた顛末だ。

臨時政府関連で比較的長生きをした人物が臨時政府関連の資料と国璽を持って戦乱から逃げ回り、知人に預けた末に焼夷弾で粉々になってしまった>>>そういう内容なのである。

このように締めくくれば戦争の混乱で失われたのかな?と思ってしまうかもしれない。しかしこれらの資料や発言が小説に書かれた創作だとしたらどうだろうか。

実は ”大韓民国戦の臨時政府文献被災顛末記” というのは2006年にある小説家の書いた創作なのである。愛国志士チョギョンハンという称号もその時に付けられたものだが、チョギョンハンが生きていた間に臨時政府の国璽について一言も語ったことなど無いのだ。
1951年のソウル再陥落のときに釜山に避難したというハナシすら信じがたいとしか言いようがない。中共軍参戦の勢いがあったとはいえ釜山まで逃げたというのは戦後生まれの想像だとしてもあり得ないだろう。
※釜山まで後退したのは1950年9月のこと



"民族に対する自負心で本書く" 

[対談]小説<国璽>著者イ・ボンウォン
 
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キム・ヨンジョ-小説を読んで小説でない実話を読むという感じを受けた。 どのように使うことになったか?
"私は屋根裏部屋に座って使う人でなくいつも足で走って使う。 経験が100%あらわれてこそ差別化ができるという考えだ。 私は臨時政府遺跡を3回も踏査をしたし、その中2回目は臨時政府が行った道をそのまま従った。 これを土台に地域名が誤ったのととんでもないところに標識がついたことを直しておいた。 そのような書き方法のために実話のようだという感じを受けたりもする。  ▲小説<国璽>の著者イ・ボンウォン

私はこの小説を書いてもちろん読者に興味を与えようとする心もあるが重要なのは臨時政府巡礼の教科書になることを願った心があることを告白する。 光復(解放)61周年が過ぎた今もまだ新種親日派が暴れている。 それで臨時政府と親日派を素材にしておもしろく解きほぐして読者らの意識を悟る意図で使ったのだ。"

-ユ・ビョンド教授は実在した人を手本としたことではないか?
"すぐにそんなに感じることもできるだろうが必ずある(どんな)人を手本とすることに置いて使ったのではない。 ただ今私たちの社会の状況を持って整えただけだ。 それに対する誤解はなくなることを望む。"

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-臨時政府の国璽を探すことはできないのか、そして小説の題名を<国璽>にしたことが小説内容とよく合わないという感じがするのにこれに対する考えは?
"事実重要なのは国璽よりも臨時政府重要文献だ。 本の次ページにチョ・ギョンハン志士の"大韓民国臨時政府文献紛失顛末記"で見るように625戦争の時焼夷弾をむかえて燃えてしまったというのは説得力がない。 それよりは他の所に保管されているが探すことはできなかったり戦争中に北朝鮮に渡されたりすることに重きを置きたい。 今後私たちには臨時政府の文献と国璽を探さなければならない責任があると考える。

そして小説の全般的な流れが国璽と距離があるように見えるけれども私は国璽で象徴される臨時政府とまた、その文献を描こうと思ったのだ。 そんなに理解してあげることを願う。"

- <国璽>を見てのがしてはいけない部分があるならば耳打ちしてほしい
"この小説の中には数回の反転が存在する。 そして最後の部分に行ってやはり読者らが想像できない大反転が成り立つのにそれでも読者らは'何またないか?'という物足りなさを感じることができるという点に着眼して小さい反転をもう一つ作っておいた。 簡単に探すことができないがそれを全部探すことがもう一つの面白味であろう。"

-もっとしたい話があればしてほしい。 また、今後書きたい本は? 
現在の準備中である本は私たちの伝統の図と西洋美術を接木させて比較して私たちの文化自負心を高めることができる小説だ。 すでに決定的な動機は探したし、執筆だけ残っている。 また、これは小説を書いた後ドキュメンタリーにも整える予定だ。 その他に独立運動に関連したものなども着実に計画している。 今後も私が書く本とドキュメンタリーは全部民族の自慢心労使うことになるだろう。" /キム・ヨンジョ


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▲大韓民国臨時政府の国璽捺印©
イ・ボンウォン作家提供



本の表紙に使われたイラストが一人歩きしながらその材質が玉石になり、四方65mmサイズだったことになり、”大韓民国臨時政府印” というモダンな書体で彫り上げられたわけだ。


大韓民国臨時政府27年歴史の貴重な資料が入った十個の文献箱が、1953年の夏、朝鮮戦争の渦中で紛失して、現在に至るまでその存在が五里霧中の中に紛失経緯がなぞとして残っている。
ところが2005年2月下旬、その時文献らと共に紛失したと知られる大韓民国臨時政府国璽が中国北京、リュリチャンの骨董店街で発見されたという便りが、ある言論に報道されて、関連学界と報道機関、国民は驚きと衝撃にまきこまれる。 インターネット新聞市民記者である主人公は中国土地で問題の国璽を探したという放送作家なにがしに会ってインタビューして、ある旅行会社が緊急に用意した‘臨時政府27年遺跡踏査’プログラムに参加する。 
旅行会社社長と朝鮮族現地ガイドを合わせて合計11人に組まれた1次踏査団は3月15日から1ヶ月予定で中国内旅行を始める。 
イ・ボンウォン著 /時代の窓社/ 7,500ウォン


大韓民国臨時政府国璽は実在したのか?

この本、小説 ”国璽” イ・ボンウォン著、は公称でも7000部ほど売れたようだが、それ以上に興味があるのは、大韓民国臨時政府の国璽が押印された何らかの書類があるのかということだ。 たとえば李承晩からはじまる臨時政府大統領の誰かの署名があるような何らかの書類の存在である。

もちろん韓国人が血眼になって探し出したい ”臨時政府が形而下でも存在していた” という決定的な証拠ともなるものだが、そんなものは現在までこの世には存在していない。
つまり大韓民国臨時政府のハンコが押された紙切れひとつすらこの世には存在していないのだ。


大韓民国臨時政府国璽が発見された>>>ここからはじまる小説の表紙に国璽のイラストが添えられている。それがこの世に唯一存在する大韓民国臨時政府印の印影ということだ。


無かったものを無くしたとして、有りもしない印影を小説の表紙から引用することで国璽の存在が事実だったと誤認させるような行為は韓国人のお得意とする分野である。

李舜臣の日記が彼の死後60年すぎた頃に発見されてみたりしながら、ヒデヨシ軍の参戦記録にも中国明の将軍の記録にも出て来ない”超時空朝鮮水軍” が空飛ぶ亀甲船で炎をまき散らしながら大活躍する歴史小説が事実だったと思い込まされているひともいるわけで、亀甲船が実在したという証拠は何一つ無いし、それは李舜臣将軍の記録もそうなのだ。彼(李舜臣)の死後60年すぎてから書かれた彼直筆の日記が発見されたとか(死後書かれた!)、彼と懇意だった同時代の有名人の書いたとされる懲録みたいのが、いくらでもある。 懲録には李舜臣将軍が出てくるが、同時代の民間人の残した別の記録には李舜臣の活躍など出てこない。 懲録が写本を作る段階で創作されたことは歴史的に見ても明らかな事実なのである。
(李舜臣将軍の活躍が江戸時代後期の太閤記に出てくるが平賀源内の戯曲のほうが先)



過去カキコを貼りました。





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