韓国のブランド牛? 済州黒牛は "絶滅危険群"
ニホンの和牛を見て思いついた済州黒牛 02年からグローバルブランド化を推進
現在黒牛632頭飼育 個体数が少なく近親交配も危険水位...子牛死亡率·疾病急上昇
[ソウルミーナ]済州島黒牛のグローバル名品化事業が後ずさりしている。 個体数の拡大どころか、かえって絶滅危険群に転落した。
済州島によると、済州黒牛飼育頭数は昨年末を基準に41農家に355頭、畜産振興院179頭、国立蘭芝畜産試験場35頭、西帰浦市畜協生畜事業場83頭など、計632頭に止まっている。
▲済州黒牛は、茶色牛・まだら牛・白牛とともに、韓牛の4大品種の一つだ。
この済州黒牛は2013年に天然記念物546号に指定された当時、89の農家と2つの機関で1292頭を飼育していたのとは違い、今は半分程度に急減した。
これは国連食糧農業機関(FAO)が絶滅危機家畜の基準として提示した飼育頭数1200頭にはるかに及ばない数値だ。
近親交配 子牛の斃死率も高いし病気にも弱い
済州黒牛のグローバル名品化事業は2002年から施行され、済州黒牛の種保存とブランド価値の上昇などを通じた地域特化産業の土台作りのためのものだ。
済州道畜産振興院は2008年から2013年までの5年間に総額26億7000万ウォンを投入し、受精卵の生産·移植技術を活用した済州黒牛の大量増殖と高品質ブランド生産基盤構築事業を推進してきた。
▲韓国では種類がちがっても毛色が黒色であれば黒毛牛に分類する
2012年~2016年には133億2900万ウォン(国費40億4000万ウォン、地方費62億9900万ウォン、自負担29億9000万ウォン)を投入し済州黒牛タウンの造成、改良センターの建設、済州黒牛事業団構成、育種農家の育成なども行われた。
しかし、大量増殖のための研究所と専門人材は確保されず、近親交配を繰り返したため、劣性遺伝子を持った子牛が生まれた。 個体数が少ないため受精時に近親である確率も高く、したがって子牛の斃死率も高いし病気にも弱い。
さらに、受精卵移植事業が終了することによって済州黒牛産業化に必要な最少集団である5000頭を確保する計画もとん挫するしかない見通しだ。
(ソウル/みそっち)
黒牛の飼育期間ってふつうの韓牛より6~8ヶ月も手間がかかり農家飼育忌避
農家も済州黒牛の飼育を避けている。 経済性のためだ。 済州黒牛は韓国牛より飼育期間が6-8カ月ほど長い。 生育が韓牛より遅いため、肥育用の期間は平均38~40カ月齢に出荷する。 今すぐお金がかかる農家の立場では、育てるのはなかなか難しいわけだ。
脂身が少なく赤身肉の多い韓牛だが、韓国人の口からは、「済州黒牛の味と品質はニホン和牛と比較すると同じかやや高い」と評価されがちだ。しかし、済州黒牛は和牛の本場であるニホンはおろか他の海外輸出実績でさえも皆無である。
これは口蹄疫汚染国である韓国が、済州島だけの口蹄疫清浄宣言をしたものの、どこの国からも相手にされなかったことによるものだ。
このように韓国産の牛肉輸出は牛肉の輸入開放とともに価格競争では米国産·豪州産に勝つことが困難であるため、国内消費での韓牛の高級化と差別化のカギとなる。
一部ではニホンが和牛という特定品種の家畜遺伝資源を育成し、ブランド化·高付加価値ブランド品にしたように、済州黒牛も経済的価値を持った未来家畜遺伝資源として国家レベルでの支援の必要性を提起している。
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日本植民地時代の頃は力がなくて「黒牛」を奪われてしまったのだ。
「済州黒牛」は、自然に「ニホン和牛」になり、今も全世界では "和牛” を、日本の伝統品種と考えている。
今の多くの和牛は「改良」に成功した日本のものかもしれない。しかし、「黒牛」は、日本のものではない。日本でさえも「朝鮮」から渡来したと説明するからである。済州畜産振興院は、この誤解を正すために、10匹の黒牛を探し回って飼育に入り、2015年基準1700匹を飼育している。また、2013年には天然記念物第546号に指定されて保護に乗り出している。
ということなんですが、2018年の時点では計632頭にとどまっているわけです。
もう目を付けていた韓国
そいじゃあっと2014年には韓国畜産振興院レベルで黒毛和牛の受精卵譲渡の件でニホンと交渉しようなんてことがありましたが、これはあっさりと撃沈しています。
いっそのこと、生きている子牛をニホンからフェリーで連れて帰れれば結構なんですが、すでに ”ニホンから極秘裏に輸入した血統書付きの子牛” という触れ込みで詐欺をしようとした一味が捕まったこともありました。
半島のどこにでも普通にいるような子牛の黒いのを血統書付き和牛と偽って済州島の肥育農家に売ろうとして木浦まで運んで来たら、韓国国内でも登録の無い牛の移動が禁止されているうえに、口蹄疫の真っ最中で、済州島への牛とか豚の搬入が禁止されている最中だったのです。