借金に対する韓国人の深層意識を見てみよう
永遠に続く返済こそが韓国人の持つ経済観念の根底にある
王が代わると定期的に行われた借金の帳消しは今の大統領の人気取りに似てないか
[マネーミーナ]人類の歴史の中で朝鮮時代の韓国人ほど貧しかった人たちはかつて存在したことが無かった。その理由は言うまでも無く高麗~朝鮮という900年も続いてきた”敗戦国”という立場であっただろう。
今では貢物と文化のやりとりであったかのような歪曲でもしなければやってられないというのが現世の韓国人たちである。しかし朝鮮時代の彼らにとっては朝貢といえば一方的な貢ぎ物を定期的に送らねばならない”賠償”の意味だったのである。
朝鮮政府は収入の半分を朝貢のために使うしかなかったし、租庸調の制度はその抜け道で税収はさっぱり上がらなかった。すなわち納税の義務から逃れるために逃げ出すものが後を絶たなかったのだ。
もちろん当時の政府は農民を土地に縛り付けるために税のほかに ”還穀” として穀物を借り受けることを強制したりもした。
永遠に返済の終わらない債務を国民(そいう概念は無かったが)に押し付けて宗主国へのご機嫌取りを続けなければならなかったのが朝鮮時代ということだ。
※むかしの農家の次男三男ができることといえば丁稚奉公や中間があるが、朝鮮には商店が存在しない、武家も無いから奉公人も無い、もちろん お寺の小坊主も仏教排斥で無い。渡世人になるには義理が無い じゃあ何だろう?
韓国はここ10年ほど低金利時代を迎えている。 都市銀行の信用融資はおよそ5%台後半で、アパートの担保融資も3-4%台のようだ。 もちろん低金利時代でも融資が容易でない "低信用者" はいつの時代でも存在した。 韓国国民5000万人のうち1000万人以上がこうした"低信用者"だという。
もちろん生まれたばかりの赤ん坊が融資を受けることはできないから、これも"低信用者"であるというのが韓国の公式見解であるようだ。
※韓国で信用等級9・10等級は公式におよそ170万人、それ以下の無信用者は200万人~400万人くらい
一方では今日の低金利時勢は朝鮮韓国史のなかでは非常に稀なものだ。 かつて大半の韓国人たちは膨大な高金利の中で暮らしてきた。 朝鮮後期に政府が定めた公債であるすなわち官庁や官庁に準ずる機関が貸すお金や穀物の利子は年利10%程度だった。
悪名高い還穀という融資も公式には年10%の利子だけを受け付けたが実際の利率は50~100%だった。 ほとんど殺人的な水準だった。 他の公債も年30~50%でこれに利子を付ける複利計算まで適用して債務者を締め付けた。
朝鮮後期の公債務は年利10%台
私債(サラ金)は言うまでもないが。 今はほとんど死語となったが、かつては長利という言葉が盛んだった。 春窮期に穀物を借り、収穫期に借りた穀物と穀物の半分に当たる利子を集めて返すものだった。 この程度だけでもかなりの高利だったがこれ以上の"公利"も少なくなかった。 これは借りた穀物に2倍の利子をつけて返すものだ。
このような事情は20世紀を迎えた1900年代になっても変わらなかった。1900年代、光州(クァンジュ)の市場でも少なからぬ小口融資があったが、これが知られたところでは、2つの融資商品があった。 一つは市過錢で、5日ごとに戻ってくる取引日に元金と利子を分納することだった。 このような慣行は全国的にありふれていた。 しかし利回りは,その地域や借用者によって違っていた。 市過錢の利子は年利で換算すれば約140%を越えた。
市過錢より低い利子の融資商品もあった。 "遞計錢"がそれだが、この場合も償還周期は市過錢のようだったが利回りは年70%程度でその半分にとどまった。 そうだとしても,かなりの"高利貸し"だったことは明らかだ。 このため"遞計錢"は"豚が子を生むように鶏が卵を産むように収益があふれ出る金遊び"として知られるようになった。 もちろん,これは純粋に融資者の立場から出た言葉だ。
それなら日帝統治期以後、金融機関が増えて事情は好転したのだろうか。
いったん金融機関が増えたのは事実だ。 日帝時代には全国のほぼすべての都市と面所在地には金融組合が設立された。これが韓半島全体では900程度に達した。もちろん、金融組合以外の銀行も少なくはなかった。
これにより数値上の貸付利子は以前に比べて大きく減ったのは事実だ。 1930年代末ごろ,光州(クァンジュ)にあった殖産(シクサン)銀行の支店は担保融資の時に年4.7%で湖南(ホナム)銀行の場合、信用融資は9%台、担保融資は6%台後半だった。
日本による植民地時代、光州市内だけでも貸金業者として"光州(クァンジュ)農工会社"、"湖南(ホナム)商社"、"全南(チョンナム)ズゴク会社"、"ヤンパ農場"など数え切れないほど多かった。
残念ながら光州だけでなく全羅南道は他の地域に比べてこのような貸金業が盛んだった。 1930年代初頭で全国にあった1万2000人の貸金業者のうち全羅南道だけで3000人がいた。 貸金業者の4分の1が全羅南道(チョンラナムド)にあったわけだ。 もちろん,日本人の貸金業者も少なくなかった。 全羅南道(チョンラナムド)の貸金業者の中で1000人が日本人だった。 しかし残りの2000人は朝鮮人だったのが事実だ。
全羅南道(チョンラナムド)の富豪たちがこのように金貸しに夢中になったのは,おそらく彼らの相当数が"地金"であることから始まったことだろう。 資産の大部分が流動性の少ない土地に縛られているため現金流動性の大きい貸金業に目を向けたはずだ。
もちろん投資先が多くなかったせいもあるだろう。 しかし相当数の富豪らが手軽な金もうけで貸金業を選んだのは確かだ。
当時このような貸金業者らの金利はどうだったのだろうか。 光州に関する資料はまだ見ていないが近隣の和順(ファスン)に縁故のある貸金業者の場合、年20%台の利子を受け取ったという。 光州地域の貸金業者も似たような水準だっただろう。
日帝統治期に撮影された朝鮮人の暮らしぶりは大半が哀れだ。 暖かい日差しで目をしかめ肌は白黒写真であるにもかかわらず黒く日焼けしたことがよく分かる。 こんな哀れなイメージの根源には何があるだろうか。 明らかに多くの答えがあり得る。 もちろん彼らが怠惰のために貧しかったと言うならそれも事実だろう。わずか35年の日本統治期に作られたイメージが現在でも韓国人を見る目として受けとめられているなら経済大国10位圏だと誇っても面映ゆいばかりだ
(ソウル/みそっち)
明治期に朝鮮を見てきたニホン人は荒れ果てた田畑をみて ”灌漑すればいいのに”、禿山をみて ”植林すればいいのに”、道端で売っている商人を見て ”愛想よくすればいいのに” と思ったわけです。なによりも明治期のニホン人がおどろいたのは”見物人”の多さでした。つまり何もしていない人ですね。何をしているのか分からないひとが多かったということです。
そいじゃあ喰っていけないじゃん。
とんでもありません。勤勉なニホン人だからそう思うだけで、かれらは朝鮮時代の五百年をそうやって過ごしてきてバランスが取れていたのです。
もちろん生まれれば死ぬのもいるわけですが、そーいうのは野山にうっちゃるので記録も墓も一切無かったのです。農業生産の程度が人口を調整していたのですね。
そして大正初年ごろに日帝の手で公共事業が盛んになります。堤防や貯水池、鉄道敷設に道普請といった都市計画までありました。すると朝鮮人労働者が必要になったのですが、かれらはお金を受け取って働くという仕組みを理解できませんでした。
当時の朝鮮人は働かないことで有名でした。働かないでも食べていけた社会でしたから消費とか無縁で、生産も向上しないし農地は広がらず、治水なんてニホンが手出しするまでは何も無かったと知られています。そいじゃ働かなきゃ食えない? そんなことはありません、家族を養うという概念がなければ、稼がなくてもイイんです。
その理解を助ける資料は、ニホンが手出しするようになって公共事業が盛んに行われるようになった時に朝鮮人を募集したときのハナシです。男女子供で労賃をきめて募集したけど誰もやってこないわけです。これは当時の記録にも残っています。
銭じゃダメってことで、コメにしようかとしてもダメ。
寝転がって生きていくだけの社会基盤しかないところに報酬なんていうものは通用しなかったのです。それでも道を直したりするのに朝鮮人労働者が必要になって、目を付けたのが ”口入れ屋” とでも言いましょうか。つまり働き手を斡旋する商売をする朝鮮人ですね。大抵の朝鮮人は借金ばかりがありましたから、それと引き換えに働き口に連れて行って施主であるニホン人からお金を受け取るという仕組みです。
これは後になって南洋の飛行場建設などまで朝鮮人募集組織は残っていたようです。
ちなみに19世紀までの朝鮮時代には税を納めるのが嫌で奴婢身分になって姿をくらます方式で村人が居なくなったことがあったりしました。つまり農民なんていうのは搾取されるばかりの損な役回りだと信じられてきたわけです。
ですから、勘違いされがちな表現に ”朝鮮は農業国だった” なんていうのがありますが、農業が嫌で500年もの間、農業が進歩しなかったというのが現実です。しかし農業以外に何か産業があったのかということそれも皆無なので仕方なく農業国に分類するしかなかったことになったのです。
▲1920年代の水路建設のようす、ニホン統治時代にコメの収量は7倍に増えた
「半島南部に広がる農地、そこには三代前から農業をやっているという家は無い」これはずいぶん前に出てきた表現ですが、農業、農家を先祖に持つと自称する韓国人ていうのは一人もいません。言い古された言葉ですが、全員がどこかの両班の子孫ってことになっています。
もちろんそれも嘘ばかりなのですが、農業、農作業は誰かにやらせるものだったので雇用する側に全員が回ってしまって、朝鮮時代の農業をやっていたというひとが奴婢だったことになります、そんな奴婢を先祖に持つなんてことは現在の韓国人には到底容認できない事実なので誰も農業なんて知らないってことになりました。
そいじゃ今農業やってるひとは何?、あれはそこに住んでたひとじゃないですよ。ニホン統治時代に小作していた農民がアメリカ軍政が土地を分配した時にやってきた人ですね。あるいは1950年代に入植したひとです。それ以前の耕作者は朝鮮戦争で逃げ回って誰も残ってないですよ。
でも農業やってたひとが分配されたところで農業やってるんでしょ?? いえいえどこの農家も、昔から農業をやっていたなんて言いません。奴婢の子孫なんて誰も自慢したくないですからね。
それでも田舎の方に行くと祭祀ばかりやってる築100年超の豪農みたいのがあるじゃないですか、そーいうのが両班の子孫っていうだけで、そこに集まるのは「自称、縁者」というひとたちです。それでも地方の両班の子孫はかっこ悪いですからね たとえば李舜臣将軍の宗家を名乗る家系は7つ以上あるし朝鮮時代の主だったひとの子孫を自称する韓国人ばかりなのはびっくりです。
ニホンだと「江戸入府」のころから百姓で...。なんていうのは序の口で、源平の頃に...。なんていうのまで続くお百姓さんがたくさんいます。そーいうひとたちって特権とかと無縁なんでしょうね。(農家は世襲制だけどね)