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Channel: minaQのつぶやき 네토미나
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償債廳っていうのがあってな

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償債廳という20年間だけ存続した役所があった

中国・清の燕京(だいたい北京)への使者になると物入りでもう
あっちからくると接待饗応でこれまた物入りでもう それって忠臣蔵にもあった?



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歴史ミーナ]清国との使臣の往来や交易にかかる経費を調達するため、平安道(ピョンアンド・今はキタ朝鮮平壌付近)に設置された機関。

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開設
平安道は、清に使臣を派遣する朝鮮の燕行使(ちょうせんえんこうし)は、明および清の冊封体制下に置かれた李氏朝鮮が、燕京(北京)に派遣する朝貢使節)と、清から皇帝の勅書を持ってくる中国の勅使が行き交う街にあった。 
そのため、彼らを接待し、交易資金を融資するのに多くの銀が必要だった。 その銀を補うため、平壌監営では償債庁を設置し銀を管理した。


設立の経緯及び目的
大清外交費は大半を中央の戸曹(朝鮮の行政機関)と地方の平安道(ピョンアンド)で負担した。 そのうち平安道1623年(仁祖1)平壌に泉流庫と義州に官郷庫を設置し、燕行使の路銀と勅使の接待にかかる費用を調達した。 
ところが、泉流庫で不意に発生する使行費用を全て支払うことができなかっただけでなく、そのために独自の財政までも枯渇していた。 このため平安監営では粛宗台に利殖で運営される償債庁を追加で設置射幸費を補充した。 償債庁はこれ以外にも、訳官たちが中国入りし、軍門から路銀と交易経費として借りた銀を返済できない場合その負債を解決することも行われた。

朝鮮王朝は、建国(1392 年)とともに明を中心とする国際秩序へ編入(3代国王太宗の朝鮮国王冊封、1401 年)し、明と典型的な朝貢・冊封関係を結び、周りの諸国とは交隣関係を結ぶ事大交隣外交を行った。こうした事大外交を担う朝鮮から明に派遣された使節は、新年に派遣する賀正使、皇帝の誕生日に派遣する聖節使、皇太子の誕生日に派遣する千秋使の「一年三使」が定期的な使行であった。そのほか非定期使節としては、奏聞使と計禀使(朝鮮王朝からの多様な報告・解明のために派遣)、奏請使(明朝廷から特別な要求があった時派遣)、謝恩使(その要求が受け入れた時)、進賀使(皇帝の即位・皇太子冊封のとき)、陳慰使・進香使(皇帝・皇后の喪事に際しての)、告訃使(朝鮮国王や王妃の喪事を報告)、欽問起居使(また皇帝の地方巡行・遠征に際して派遣した)などがあった )。そして、明清王朝交替後、朝鮮が清を中心とする朝貢・冊封関係に入ると、明時代と同様に使節を送った。こうした、直接「中国」を体験した使行団は『使行録』を残したが、中国への使行録は『朝天録』と『燕行録』として伝えられている )。『朝天録』とは、「天朝への朝会(あるいは朝貢)の記録」という意味を持つ「対明使行」の記録であり、『燕行録』は「燕京への使行の記録」の意味で、「対清使行」の記録である。



組織および担当職務
燕行使に随行して中国に入った訳官たちは中国との交易で大きな役割を果たしたが、独自の資本が貧弱で、政府から銀の貸し出しを受けて使用し、帰国後に返済した。
ところが融資銀を適時に返済できず機関の財政事情を困難にしてしまった。 こうした問題を無くすために設置された償債庁は、保有する銀を負債を抱えた訳官に貸し出し、一定期間後に未償還官銀を返すようにした。 

閔鎮遠(ミン·ジンウォン1664~1736)はかつて平安監司だった頃、償債庁の資金を負債者に貸して後から指揮監督し、1,2年内に数万両を受け取ったことがあった。 こうした効果のためか1725年(英祖1)には訳官が償債庁の預貸に貸せば、5~6年の間に貸した60,000両を順次返すということもあった。


変遷
償債庁の融資にもかかわらず、官銀が償還されない心配を完全に無くすことはできなかった。 償債を設置して20年が経ったころには負債を負った役人たちは貧しくて返済できない事態が続いた。 そして1743年(英祖19)左議政松寅明の言葉に従って償債庁を廃止した。('英祖実録'19年4月14日)。


(ソウル/みそっち)




あの時代における朝貢国っていうのは使者がやってきたり、あっちに行ったりするときにこっちに無いものを買ってきたりあっちで売れるものを持って行ったりしてお金を稼ぐ随員がいるわけです。これを譯官(訳官)と言いますから通訳という身分でしょうね。

ンでもその実態は、背負い商人ってことです。荷物が多ければ途中の村々から人手を集めて運んだりもします。朝鮮時代にも宿場のようなものがあって人馬の交換が行われたのでしょう。

今のソウルから歩いて平壌経由で、北京まで馬に乗り継いだり歩いて移動する行列が黃金一百兩、白銀一千兩、水牛角弓面二百副、豹皮一百張、鹿皮一百張、‥‥。を運ぶわけで、手弁当が原則だった朝鮮時代の兵役とは全く別の、そんな行列はそれぞれが日当で動く人足だったわけですから、統一性の無いみすぼらしい有様だったようです。(中国側にそんな資料が残っている)

そいうのにお金がかかります。銀だったんでしょうね、今でも路銀って言いますからね。

これを江戸時代のニホンに例えると、京から勅使がやってくると饗応役の浅野内匠頭は自費で畳替えしましたよね。(誰がその年の饗応役をやり遂げたのか知らん)

一方播州赤穂への早籠に乗った原惣右衛門と大石瀬左衛門がえいやぁとばかり島田の宿を出るころ胸騒ぎをおぼえた大石内蔵助は・・・、 なんてね。

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いえいえ ソウルから北京だと空を飛べば500㎞ですから橋も無かった頃だと大変だったでしょうね。(途中は船だよ)しかも運んでいるものは黃金一百兩、白銀一千兩、水牛角弓面二百副、豹皮一百張、鹿皮一百張、‥‥。(これを毎年ネ)

その回数は何と、朝鮮燕行使は、丙子の乱で李氏朝鮮が清に降伏した1637年から、日清戦争により冊封体制から解放される1895年まで約250年続き、その回数は500回以上或いは清の入関(1645年)から甲午改革の1894年までの250年間の数は約600回(当初は毎年4回、1644年以降は年1回)


これね、年々貢ぎ物の規模が小さくなってきて、そのうちには北京からやってきたのが常駐するようになったのです 李鴻章とか袁世凱が清の朝鮮担当でしたね。北洋軍閥(中国の)っていうくらいですから当時でも主要な運び方は水運だったのでしょう。 (えっ船じゃないの?)

それでも21世紀の韓国の歴史家は ”人馬の交換をする駅があった” と言い張ります。
毎年とは言っても年に1往復するだけの行列のために恒久的な施設を作ったという記録はありません。そんなものの痕跡は見つかっていないのですが、ニホンにあったものはすべて朝鮮にもあったと信じているひとたちは耳を貸しません。
(迎恩門は中国清からの使者を迎え入れるために作られたもの)

ええ、品川の先の東海道であればすべての宿場ごとにお泊りする宿屋があったりするわけですが、朝鮮時代は背負い商人が集まる宿はあっても町人っていう身分が存在してないので、物見遊山でお伊勢参りみたいな文化は朝鮮にはありません。
この辺も、21世紀の韓国の歴史家らは、”朝鮮時代中期には街道も整備され各地で交易とともに人物の往来も広く云々” となります。(あの修学旅行で行く慶州の仏国寺とかが当時の人気スポットだったなんて言い出します。荒れ果ててたのにね)


あのほら、江戸時代の参勤交代の出費で大名がお金に困るでしょ、朝鮮では毎年の朝貢使節が路銀を使うし、あっちからくれば饗応にお金がかかるという持ち運ぶ品物やいっしょに付いていく人たちの路銀を貸す機関を設置したというのが今回のまとめです。

ちなみに朝鮮の燕行使は300~500人くらいが毎年陸行して日程はおよそ2ヶ月だったそうですよ。(かなり急ぎ足)
ってゆうか薩摩藩の参勤交代(40~60日)がのんびりしすぎてるかも




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最近歩いてない気がする


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