あまり知らない壬午軍乱でわかる韓国人の原価意識
中国に拉致・強制連行された33日天下の大院君っていうのも情けないけど
旧軍への13ヶ月の間延滞された給料の政府が不良米を支給して起こった壬午軍乱
うんうん
[歴史ミーナ]1882年(明治15年)、壬午軍乱が起こった(発端7月19日、旧暦6月5日)。旧式軍隊の反乱だった。 旧軍兵士への俸給が滞ったことが反乱のきっかけとなった。
ニホンから武器援助を受け教練を受けた新式装備の別技軍との確執があったとか言われています。1年以上も延滞された給料のコメに砂が混ざっていたことがきっかけになったとかいうハナシですね。
近代朝鮮史. 上卷 561p
さて、朝鮮の旧軍って言いますが、それは閔妃がニホン式軍隊を養成しようとした別技軍と比較して旧軍というだけですから、紛れもない朝鮮の正規軍ってことです。
これがたったの3,000人だそうです。これが全てなんですよ。
そいじゃ正規軍に「1年以上も延滞された給料のコメ」って一体なんでしょうか??
いえいえ給料が1年以上も延滞される軍隊って何のことでしょう。
今日のハナシはそのへんです。
朝鮮には自己責任という言葉がない
「いやじゃありませんか 軍隊は♫ カネのおわんに 竹のはし♪ 仏さまでも あるまいに一ぜん飯とは 情なや」 こんなのがニホン人のイメージする旧軍ですね。
軍隊ではハガキに切手やふんどしは自前のお給金から支出したわけですが、3度のメシと寝具に着るものはすべて官給品でした、そしてお給料の支給です。自衛隊でも米軍でもこれは大体どこの国でもそうなっています。
10両盗めば首が飛ぶ江戸時代頃の新選組平隊士のお給料には諸説ありますが、月給制では無かったと思います。そういうひとは刀を自分で買ったりしていたし着るものも決まりはなかったでしょう。んでも故郷に送金したような小説が事実だとすれば、食べるものと寝るところは完全支給だったでしょうね。
もっとむかしの宮本武蔵の頃になるとまだお百姓さんが自前の刀や槍を持って参戦していたわけで、食べるものも自前だったかもしれません。ヒデヨシがまだ藤吉郎だった頃であれば ”足軽” という職業がありましたが、こちらも年棒制ですよね。
・さて朝鮮軍ってどのへんの感じなのでしょうか。
・お給料が1年以上延滞遅配されても平気な朝鮮軍って何だったのでしょう。
・誰が指揮をしてどのような武器装備を持ってどんな訓練をしていたのか
その待遇は??
その前に朝鮮時代の社会を少しだけ知らなければなりませんよ。
まず、貴族や王族は戦乱とは関係ありません、みなし公務員のような両班も、お仕事が搾取と狼藉ですから、文官・武官のうちの武官が、正式朝鮮軍の前線指揮官になるわけで、自前の自分の使用人らに輿(こし)を引かせたりするようすが記録に残っています。そういうわけで朝鮮時代の身分制度によれば兵役の義務があるのは”常民”だけでした。
そんな常民(상민)の兵役っていうのは16歳~60歳まで兵役の義務がありました。
律令制度のころのニホンのようですね、そしてまるで韓国人の思い描くキタ朝鮮軍のようではありませんか。 ※キタ朝鮮の兵役が25年とかいうのは与太話レベル
16歳~60歳までの男子に兵役の義務があれば国そのものの農業や産業が立ち行かないことは明らかです、実際の常民でも兵役に全員が行くわけじゃなくて、兵役の代わりに軍布2反を納めると兵役が免除になったりしました。
※軍布:木綿の布で縦糸の数とかが決まっていた。1反で朝鮮着の上下が出来上がる
朝鮮時代の身分で一番多かったのは
でも朝鮮時代の身分はそれだけじゃないんですよ。兵役も納税も義務の無いのが、人口の70%を占めていた賤民にあたる人たちです。農作業や藁仕事はかれら賤民(천민)がやっていましたよ。今回のハナシには賤民は関係ないのでこのへんのハナシはまた別の機会にでも
※賤民は勘定に入らないのが朝鮮式人口統計なんだけど
▲むしろで囲った朝鮮式住居、写真機が発明された以降である
やがて1894年(明治27年)甲午改革以後になってようやく身分制度が徐々に消えたそうですから、旧軍と別技軍があったころは身分制度がしっかり残っていた頃です。
そんな歴史的背景があるので、ほとんどの韓国人は兵役や納税が嫌いです。そりゃ兵役や納税とは無縁だった賤民がほとんどの韓国人の先祖なのですから、彼らが体質的に兵役や納税を嫌がるわけですよ。
でもこれがニホン統治時代ともなると、兵に志願することで3度のメシが出るということが魅力となって、ニホン統治期の半ば過ぎ頃からニホン軍や満州軍を志願する朝鮮人がものすごい勢いで増えてみたりしました。
朝鮮の正規軍の規模は?
そういうわけですが、朝鮮時代末期の朝鮮の正規軍は10万人というのが定説になっています。まぁそのくらいかなってところです。ここに朝鮮朝廷では予算の割り振りをして装備を与えるわけですが、この辺が中世以前の朝鮮様式なんですよ。
征夷大将軍じゃないけど、それらしく役職を付けて江華島とかの警備をするのです。
※この10万人は定数であって、軍布で兵役逃れするのが多い
あのほら、租・庸・調って覚えてますか? それがそのまま朝鮮の19世紀末までの税制です。奈良時代に防人ってあったでしょ。手弁当だったそうですよね。
あれと同じで朝鮮の正規軍は手弁当で集められた常民だったわけですよ。
彼らは手弁当で集められているので政府からの俸給なんて受け取ることも無かったわけです。それでも集団生活させておくところにお金が必要だったんですね。そんなところへの俸給が1年以上も滞ったので反乱が起きたのでしょう。
シンちゃんの言葉を借りてくれば「すべての経済システムの根幹には人件費があります」>>>>実際の朝鮮の正規軍には人件費は無縁でした
兵役はタダ働きなんですよ、これは使う側も呼ばれる側にも共通した韓国人特有の物の考え方なのです。人件費なんてものは朝鮮の長い歴史の中でまったく当てにならないものだったのでしょう。ニホン統治時代になって貨幣経済がされ導入されて「給金をやるから道路工事をしてくれ」と言ったときに朝鮮人が集まらなかったのも同じことです。
ハナシを整理すると 朝鮮正規軍は常民が手弁当で参加した寄せ集めだった。
ということです。もちろん少数ですが、朝鮮人の職業軍人もいました。
壬午軍乱は翌月には鎮圧されます、中国清から軍隊がやってきたのですね。その時の戦闘の規模から壬午軍乱に参加した朝鮮の正規軍の人数がわかります。
それによればおよそ2,300人程度でした。あれれ?10万人いたんじゃないの? はい、水増しだったんでしょうね。韓国でも伝統になっているこの兵隊水増しは朝鮮戦争のときにも十二分に発揮されました。
◇ ◇ ◇
1876年(明治9年)には日朝修好条規、1882年(明治15年)には米朝修好通商条約を結んだ朝鮮王高宗は、壬午軍乱が起こると父、大院君に大権を渡した。 興宣大院君(李昰應)の政権復活だ。
高宗の親政(親政)から8年4ヵ月ぶりだった。 しかし閔妃(~1897年)明成皇后勢力の臣下たちの反撃も迅速だった。 天津へは、金允式(キム・ユンシク・魚允中(オ・ユンジュン)らが、中国(清)に、軍乱鎮圧を要請した。
わずか33日だけ政権をうばった大院君は中国の天津に護送され、清の人質となった。
彼が解放されたのはそれから3年後だった。
1898年(明治31年)、大韓帝国の成立の翌年、失意のうちに...ね
なつやすみぃ