なぜ韓国では「墜落の直前まで操縦かんを離さず機体を安全なところまで」式のニュース報道があふれるのか
[みなQのコラム]今日、韓国空軍のF-15K戦闘機が訓練中に山深い山に激突して2人が死んだという、F-15K戦闘機の墜落事故としては11年ぶりというから ”いつも落ちてる、地上で墜落する” という第一印象のある韓国空軍のイメージとはちょっと違っていて少しだけ意外な気もする。
韓国の各紙は、2016年3月の、F-16D戦闘機の1台が訓練中にエンジンが停止して墜落した事故を引用し「当時の戦闘機に搭乗したパイロット2人は、エンジンが止まった後、民家を避ける操縦後に緊急脱出した。」と書きながら、今回の墜落事故でも韓国空軍のパイロットの適切な判断と崇高な犠牲的精神がいかんなく発揮され被害を最小限に食い止めることができたと書きたてている。
こうした韓国人にありがちな ”本能” では2014年7月の「セヲル号事故現場見物消防ヘリ墜落事故」や、2013年11月の「ソウル三成洞アパートヘリ墜落事故」などでも遺憾なく発揮され、整備点検とか操縦者のミスや機体の欠陥云々より「韓国人の崇高な犠牲的精神が...。」という書かれ方をすることが多い。むしろ操縦者の欠陥や操縦者の能力不足ではなく、「落ちるしかなかった機体を安全なところまで...。」というあたりにチカラのこもった書かれ方をするわけだ。
”美談事例集” にまとめられたりもしている韓国の事故
韓国空軍では機体の欠陥で航空機が墜落した場合、機体の欠陥や判断ミスなどの本質的な話はさておき、空軍では飛行事故でパイロットが殉職すると、「民家を避け操縦桿を最後まで離さない軍人精神」「緊急脱出のチャンスはあったが、機体を最後まで放棄せずに」式の発表を欠かさない。操縦者にはもれなく『二階級特進』がセットになっていることも知られている。
やがて、事故の記憶も薄れたころに、ようやく事故の原因が単なる整備不良であったりパイロットの判断ミスであったことが明らかになり、事故の責任が問われるようになった場合でも、韓国のマスコミは横一列に整列しながらもう一度「韓国人の崇高な犠牲的精神」と大書きして事故を締めくくることになる。
あるいは操縦者のミスが救いようの無い場合になれば、2013年の「アシアナ機214便墜落事故」の時のように、客室乗務員の「献身的」な脱出指示で被害が最小限に...。といった風に描かれることもあるが、こちらもすぐに「ウソでした」。と小さく訂正されたことがある。 こんな場合でもウソでした訂正は韓国人の記憶に残ることは無く、機会あるごとに「客室乗務員の崇高な...。」というフレーズが登場することになる。 それほどまで、韓国人の彼らには崇高だの献身的だのといった彼らに無縁の評価が欲しいのだというあたりに一抹のかわいそうだという気持ちさえめばえてみたりする。
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ここに韓国人側からの言い訳にも似た事例があるので、かいつまんで紹介してみる。
『パイロットがなぜ異常を検出してからも果敢に機体を放棄していないか その理由は簡単である。一生傷に残るからである。空軍のある少佐の場合は、機体を放棄し、緊急脱出した前歴のために中佐への進級が遅れた後、飛行職から空軍参謀総長秘書に勤務することになり、同期の中で一番最後にやっと中佐に進級した事例がある。その際、酒の席を共にしたパイロットたちの間では、「緊急脱出をするとあらゆる苦難ですべて苦しむ。機体と一緒に死ねば、家族は年金も受けるが、機体を放棄し、生き残る場合になると進級不足はもちろん、軍生活でずっと決定的な瞬間に不利益を受けることになる(今回進級した)その先輩も僅かな判断ミスで人生が狂い始めたのだ」という言葉が流れた』
墜落事故を起こして生き残れば進級が遅れる>>>もっともらしいように見えますが、韓国空軍の歴史に残る「空軍校長射出事件」では校長センセは処分を受けることも無しに校長の職にとどまり翌年に定年退官となったという記述もあって、事故を起こしても、”韓国型処罰基準” が弾力的であることがわかります。
(ソウル/みそっち)
崇高とかに縁がありませんから彼らはどんな場合でもその言葉を連れてきて記事にする習慣があるようです。 ハングルで書いてもそれをGoogle翻訳すれば ”崇高” ですが、その概念が彼らには無いので、「なんだかスーコーらしいよ」という程度の認識で墜落事故は記憶されてゆくのでしょう。