魚のおいしい焼き方 韓国では皮から? 身から?
魚焼きのグルメの秘訣は酢、小麦粉 … 白身のは'早く'、赤身魚は 'よく焼く'
うんうん 焼きアミに酢でしょ でもさぁ ソウルじゃ魚焼きアミ 売ってないし
[ソウルミーナ] ソウルといえば漢江に面した...。そんな漢江では釣りが次世代のブームやらなんやら、船で漕ぎ出せば今も昔でも手漕ぎボートなら3~4時間で海の漁場なんですが、現在ではそんなことはありません、ちょっと先まで行けばすぐそこの対岸がキタ朝鮮ですからね、鉄条網の隙間から韓国兵が拡声器で戻ってくるように叫ぶことでしょう。
もちろん漢江で獲れた魚を食べた時代もあったそうですが、汚染が進んだ現在ではソウルの釣りキチがあげた魚を料理してくれるひとなんて世界中さがしても絶対にいません。 そういうわけで漢江での釣りといえばキャッチ&ポイが原則でしょうね。
(グエムルなんて釣れたらやだな)
◇皮が先に? 身が先に...どちらからあぶるか
焼き魚をする時は皮のほうが先に焼いて十分に水分と油が出た後、身部分を焼く。 身部分を最初から焼くと水分と油がない状態でパン(韓国では焼き魚はフライパンで焼く)に身が貼り付いて形が乱れるためだ。
とくに、皮をこんがりに焼くために長く焼くと水分がたくさん抜けてかたくなることがあるので、注意しなければならない。
◇匂いも抑え、水分も出ない…酢を塗って焼く
酢に入った成分はタンパク質を凝固させる。 魚を焼く前に酢を少し塗ると魚の表面のタンパク質が凝固されて中の水分が容易に抜けて出てこない。また、魚の匂いを抑えるのに卓越した酢を活用して魚の生臭いにおいもつかむことができる。
◇生魚は焼く前そっと凍らせること
凍らなかった魚をすぐに焼くと水分がたくさん抜けて出て魚が簡単に砕ける。 凍らせなかった魚を焼く時には冷凍室で5~10分ぐらい凍らせたほうがいい。 魚が含んだ水が凍れば水分が少なく通過するだけでなく、簡単に粉々になっているのを防ぐことができる。 ※韓国人の見解だから真似しないでね
◇魚焼きのグルメの秘訣は'小麦粉'
においが多く、油が飛ぶことだけでなく、簡単に粉々になった魚焼きは家で食べたり容易ではない。 清潔な形の魚焼きを焼いた魚焼き屋の秘訣はまさに'小麦粉'だ。 魚を走る前、小麦粉をさっとつけた後、焼くと魚から水が抜けていくことを防ぎ、油が目立つことも減らすことができる。 てんぷら粉を混ぜて使えば、さらにサクサクした食感を楽しむことができる。 (このへんはムニエル風)
◇白身の魚は '早く'、赤身魚は'長く'
タイなどの白身の魚は、タンパク質含有量が少なく、加熱すれば、容易に砕ける。 こなごなにすることを防ぐため、白身の魚は短時間に調理したほうがいい。 一方、筋肉のたんぱく質含量が多いサバ、マグロなど赤身魚は、生きる魚本来の香りが強いために臭みを取り除くため、にんにく、しょうが、お酒などを入れて長く調理するのがいい。
(ソウル/みそっち)
朝鮮人は魚を食べましたか?
正解は 海の民と山の民で食べ物がまったく違っていました。 封建社会が徹底してましたからひとの移動なんて無いですね。 まず街道がありませんでした。
ニホンでは東海道(江戸時代~)に代表される街道がいくつもありますよね。 でも朝鮮には道がありません。 道が無いんですから物流なんて存在しません。
(ソウル~釜山に道路ができたのは鉄道敷設のあと)
想像してみてください、当時の商人は背中に背負えるものだけが売り物です。遠くまで販路を拡げたいでしょ。でも宿屋がありません 野宿するならイイですが、遠くまで行くのは納税の旅くらいだったのでしょう。 物々交換となれば重いものは嫌われます つまり日帰り半径内だけが商圏だったのです。しかも通貨が無い、売れ残るのもダメでしょ そいうわけで 京都に鯖街道があるけど漢城(今はソウル)には海の魚は届かなかったのです。
そいじゃ食べなかったのかよ。
はいそうです。食べたという記録はありません。
んでソウルには魚焼きアミが売ってません。そういう文化が無いのですからそうです。
海辺にキャンプに行った時に魚焼きアミを持って行きますか? 釣れた魚は棒に刺して焼くでしょ
ソウルではほとんどの魚をフライパンで焼きます ムリに分類すれば 鉄板焼きかな。
しかも韓国の包丁事情にはがっかりですから〝三枚におろす〟なんてことができる韓国人は日本料理を学んだ板前もどきだけでしょう。
※絶対にシンちゃんには出来ないと思うし
今ならネットで 『簡単な魚のさばき方』 なんてのがいくらでもHitしますが、ハングルで検索すると。 全然ありませんよ。 そいじゃ骨ごと食べるの?
いえいえ ななめにぶつ切りするだけです。
マグロの刺身もソウルでは売っていますが、あれを解体できるのはソウルでも限られた大型マートの気の向いた時だけです。 丸ごと冷凍までは韓国漁船でも可能ですが、それを解凍して切り分けるのは韓国人にはムリなのです。
それでね ソウルでは切り身のサカナがパックされて売っています。
それをフライパンで焼く ムニエルですから小麦粉つけるしフライパンには油をね。
◇ ◇ ◇
"臭う魚"の正体ってなんだろ?これが韓国人のイシモチ
▲正体は"イシモチセット"です、韓国式単一行動様式"によれば"そのまま食べてもお料理しても"、骨ばっかりで美味しくないぉ
干し魚ですが賞味期限が冷蔵庫保管で2週間程度、近海物の中国産がそのほとんどで"韓国様式包装"までして大量に輸入されているのが事実、さらに困ったことに一年過ぎても変質しない輸入品が今年の主流です。 ヒント:アクリル系保存料
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イシモチの食べ方
貰ってきたイシモチには完全乾燥品と半乾燥品があります、それぞれ食べ方がちがうのでご注意ください。
おいしそうな焼き色がついたらそれで完成です。韓国では焼き魚のアタマの向きなどにはこだわりはありません そのまま箸でむしって召し上がれ。
◇ ◇ ◇
付録③
半島総奴隷時代とは
ニホンが朝鮮半島の経営に乗り出した頃っていうのは朝鮮人のほとんどがものすごい借金をしていたのです。
お金の通用しない半島ですから借金というのは変かもしれませんが、お百姓は翌年の籾を借りていたし(本来は凶作の時の作物備蓄だったが、強制的に貸出しして利息分をお役人が私有化していた) 租庸調(ニホンの平安時代そのままの税制)で収めるものが延々と滞納していて、利息だけ払っても元本が増え続けるという半島総奴隷時代だったのですね。
おじいちゃんが借りた借金を今頃返してるみたいな感覚でいいと思いますよ、先祖代々借金を重ねてきてにっちもさっちも行かなくなったのが韓末という時代でした。
(あるいは、借金返済(納税)の義務がある身分=良民ってこと、払えなければ穢多になる=そういう棄民層を否定したいのはもちろん×落解放同盟とかね)
このへんが現代の韓国人の金銭感覚に影響を与えています、まず借金(前借り)が当たり前であるということですね。お金を貯めてから事業を始めるのではなく、借金をしてすぐに始めるという考え方もそうでしょう。
その一方で朝鮮時代を通じてあの国には現金から小銭までがまったく流通していませんでしたから、小銭を集める”貯金”あるいは”へそくり”という概念が形成されませんでした。(その場で受け取る式が発達した)
つまり貯蓄に意味が無いわけですから、現在値ではなく前年比だけで比較評価する考え方が韓国脳に染み付いています。
ニホンの江戸時代の弥次さん喜多さんなんかだと胴巻きにぎっしり寛永通宝なんかを詰め込んでお腹を冷やしてましたが、朝鮮では穴の空いた小銭はほとんど信用価値がなくて”布”が物々交換に使われていたみたいです。それは例えるならパチンコ屋さんの裏にある景品引換所だけで通用するハンカチやボールペンやライターの石、ゴルフボールなど様々な品物が使われる>>>こんな感じですね。(Wiki)
するとほら、景品交換用のハンカチなんかセロテープでガビガビだったりするようなイメージですよ。そういうのが物々交換の頂点にあったわけです。
そういうわけで、布の反物が景品交換用でしたから規格の決まったものだけが流通することが求められます。そのため色のついた布は最初から流通しませんでしたね。それでも王族や偉いお役人なんかは漢城の外に住んでいた中国人商人から絹織物までをものすごい金銀と交換して買っていたのです。
縫い針さえ無かった朝鮮時代ちなみに中国 清に降伏した時の条件に”黄金100両、白銀1000両の他、牛3000頭、馬3000頭など20項目余りの物品”なんていうのがありますが、こちらには続きがあって、”白苧布二百匹、各色綿紬二千匹、各色細麻布四百匹、各色細布一萬匹、布一千四百匹”ということで布も収めなければなりませんでした。つまり白ばかりではない布も作っていたことがわかります。これらは清の地方政府である北平(今の北京)あたりのお役人の稼ぎになるもので、清としては”地方交付金”のようなものだったと見ることができます。
そのほかに民間次元で交易も行われていたのです。その時代朝鮮には”縫い針”というものが産していませんでしたから縫い針はすべて輸入品だったことが記録されています。
もちろん釣り針が朝鮮で作られたことはありませんでした。すべてが輸入品だったのです。 釣り? ええ 『太公望』 の故事は知識階層では常識でしたが、朝鮮時代(19世紀末まで)には骨で作った釣り針が普通に使われていたのです。 あの縄文・弥生時代のような狩猟生活ですよ。 そんなわけで海沿いでは網漁が盛んでした。 んでも食べるのは海辺の民だけでした
当時の物流で物々交換といえばコメを想像しちゃったひともいるかもしれませんが、朝鮮半島でコメの栽培が進んだのはこれもニホン統治時代になってからでしたから、当時の朝鮮人はアワやヒエのようなものが収穫量の半分を占めていました。もちろん食べるために栽培していたのだと思いますけどね。 あの和箒の先っちょみたいなのにつぶつぶがついているんだそうですが、小鳥の餌を想像するとわかりやすいですね。
※残り半分がコメだと思ったら大間違いですよ、残りの半分は布を織るための麻を栽培していました。(ホントカ)
貯めておくと価値が下がるという朝鮮社会
さて、銅銭などなら貯めておけば錆びることはあっても価値はかわりませんよね。
ではこれが穀物だったらどうでしょうか。
コメの無差別栽培で今年もコメ余りと言われる韓国ですが、コメの生産量が戦前(~1945)の水準に戻ったのはなんと1970年代になってからでした。
古米古々米なんか食べたくもないですが、韓国ではふつうに色の変わったコメが出てきたりします。あんまり色が変わると豆とかといっしょに炊いて五穀米なんて喜んで食べているんですね。(炊飯用漂白剤というものが韓国にはある)
まぁ去年の穀物は翌年になれば価値が下がるじゃぁないですか。つまり当時の朝鮮人にとって蓄財することとは穀物を蓄えておくことだけど、たくさんあっても翌年には価値が下がっちゃうという代物ことなのです。下がっちゃうから富の蓄積がない社会構造ですね。すると毎年決まった量の収穫があるということが必要なのです。
社会構造がそうですから農地を広げるとか水路を作るとか物流のために道を整備するなんてことなんか思い浮かばないのでした。 まさに雑穀本位制なんですよ。
それとは別に”布(素材は麻あるいは綿)”が流通していましたよ。あの白い布地ですよね、実物は割と厚めでゴワゴワした触感みたいですよ。これを洗濯場で叩いて洗うわけです。
パチンコの景品みたいに何度もやりとりされると生地が黄ばんできます。すると交換比率がどんどん悪くなるんだとか。
そんな布地も本来は納税の代わりに織って収めるものだったわけです。これが19世紀の末までずぅ~~っと続いていたんです。びっくりですね。
(このほかに平民にだけ軍役が16~60歳まであった、もちろん自弁だけどね)
秘境仙人もサカナ食べてる?