食品に異物混入する韓国 処罰は'是正命令'だけ
キム・グァンス議員、食品衛生法違反業社の資料公開
5年間3回以上違反した会社2982ヵ所、10回以上29ヵ所
[ソウルミーナ] 買って食べるキムチからカエルとイナゴが出て、離乳食でプラスチックとコメの虫が出れば、いかなる処罰を受けることになるだろうか。 食品医薬品安全処はこのような食品を製造・流通させた業者にぽつんと是正命令だけ下した。
国会保健福祉委員会所属の国民党のキム・グァンス議員が17日に公開した食品医薬品安全処の資料によると、最近5年間、食品衛生法を3回以上違反した会社が2982社に達することが分かった。 5~10回違反をした会社は308ヵ所(1815件)で、10回以上違反業者も29ヵ所(373件)に達した。
食品衛生法違反件数のうち'異物混入'は1366件だった。 このうち89%に該当する1215件が是正命令処分を受けた。 キムチからはカエルとイナゴが出て、離乳食でプラスチックとコメの虫が出てきたにもかかわらず、是正命令のみを受けたことが明らかになった。 営業停止は7件に過ぎず、品目の製造停止6件、課徴金と過料がそれぞれ13件、16件だった。
食品から異物が発見されるケースは多様だ。 ミミズ・ハエなど各種の虫はもちろん、タバコの吸殻やガラスかけら、ビニール片、爪などが入っている場合もあった。 えびの塩辛にタバコの吸殻が入っていたり、ちゃんぽんにガラスの破片が混入された事例もある。
キム議員は"食品衛生はその何よりも敏感な部分なので、異物混入違反について甘く処罰が行われている"、"常習的な法律違反業者と異物調整による差等処罰などの食品衛生法違反に対する処罰基準を強化しなければならない"と指摘した。
(翻訳/みそっち)
ここでカエルキムチとかバッタキムチの画像を出しません。
さて、是正命令だけ出すってことですが、これが全国規模の企業となればニュース報道で記事が積み重なり不買運動に行くかと思いきや、朝鮮時代のハエ対策で昔のソウル(漢城)はきれいだったとか糞尿対策が唯一行われていた先進的都市だったなんて与太を飛ばしたりするのが普段の〝韓国型行動〟ですね。
ソウルの古い地層によれば通りの堆積物に回虫の卵が発見されるってことで、糞尿の海だったことが分かるし古い官庁などの遺構にトイレの痕跡が無かったりするのにもびっくりです。そうした意味では韓国人は先進的だったんですね。
◇◇◇
道路などもびっくりですが、加藤清正が歩いたままの道がそのまま明治時代まで変わらずに残っていたのです、もっとビックリなのは南大門だったでしょうね。
でも、土は堆積するものですから、南大門だけでも1.6mも糞尿が堆積していたんですよ。
※最新の研究では 朝鮮時代の500年あまりの間に南大門の礎石が最初に作られた14世紀にくらべて道路部分には0.6~1.5mほどの生活堆積物(糞尿)が堆積している。 城門などが相対的に低くなると糞尿が流れ込むことを防ぐために盛土が行われた記録がある。 また、王の葬儀で棺の行列が城門をくぐれなくなり城門の地面を掘り返した記録もある。
韓国の城門っていうのは全く機能してなかったんですよ。ソウルの観光で崇礼門に行くひとって多いと思います、あの韓国人の放火で燃えちゃった国宝1号なんですけどね。あれに大きな勘違いがあるんですよ。
じつは1.6mも下に建立当時の敷石が発見されたのです。この1.6mっていうのは自然に何かが積もって溜まったんですよ、そうなると扉の開け閉めが出来る訳ありませんね。 そのとおりなのです、ニホン総監府が国宝認定したときの崇礼門の門扉は半ば埋まっていて開け閉め出来る状態ではなかったのです。
▲掘り出された地下遺構を見学者に披露している、最下層から石畳が発見されたこともあり建立当時の地表面は今より1.6mも低かったことになる
※低いままだと糞尿が流れ込むので通路部分に盛土が行われたらしい
当時の朝鮮人は路上にうんちという習慣でしたから、おそらく1.6mのほとんどがそれだということです。(実際にソウル中心街の地層からは広い範囲で寄生虫卵が発見されているのです)
1.6m埋もれた南大門の秘密にもお答えします
人糞が積もってできたソウルの街並み最近になって、あちこちの大規模な工事で、それに伴う考古学の発掘調査が行われたソウル四大門の内側の事情は十分に衝撃的な事実を知らせてくれる。シン·ドンフン庶民教授などが、これらの発掘地域で採取した土壌試料を分析した結果、光化門の前から世宗路につながるソウルの中心部が一面糞で覆われていたという事実が明らかになったのだ。朝鮮王朝実録などの古文献に漢陽の深刻な汚染状態が記録されたが、土から抽出された寄生虫の卵を実証的に明らかになったのだ。
崇礼門(南大門)復元の過程で石造りの部分、地表面を掘ってみたところ1.6mも下に埋もれた石畳の遺構が見つかったのだという新聞報道があったのは2010年のことだ。
これはまた、言いかえるなら後世になり建設当時に比べて通路部分の床部分が1.6mもかさ上げされたということになる。
当時の大人の身丈にも相当する1.6mである、ところが朝鮮王朝実録を精査しても崇礼門の記述はほんの数行しかない、おおまかに建立された1396年と再建された1447年、1479年の記述があるだけだ、その中には到底理解し得ない事実とされる誤認も数多く発見されている。
その後、崇礼門は慶長の役では豊臣軍が入城した際に加藤清正が凱旋門として使いその後は歴史の舞台から遠のく時代が続いた。
ではなぜ崇礼門の通路は1.6mも高くされたのだろうか、またその工事はどの時代に行なわれたのだろうか。
崇礼門の歴史から見てゆこう 崇礼門は1396年(太祖 5年)に創建された。1447年(世宗 29年)と1479年(成宗 10年)に修復工事がおこなわれている。 それだけである。
時代背景から言えばニホンでは南北朝時代の終わり頃にあたる、その当時朝鮮ではその後500年余りも続く李氏の時代が続いた。崇礼門は王城の正門として強固な石垣とともにつくられたがその結果、国の財政はわずか50年余りで疲弊しその後、全く顧みられることも無く500年ものあいだ放置されてきたのだろうか。
崇礼門が火災で焼失したのは2008年のことだったが、その火災焼失より前の2005年頃から崇礼門の城郭構造の実地調査が行なわれている(城じゃないけど石垣など全部の構造てことで城郭構造ね)
▲説明版には1.6m下の石畳と電車開通で埋められたとある
もちろん電車開通前の写真を見ればすぐにウソだと分かる。
2005년 11월 숭례문 석축 하부에 대한 시굴조사 결과, 현재의 지반보다 약 1.6m 아래에서 석축의 지대석, 성문의 지도리석(확석), 박석이 발견되었다. 이와 같이 숭례문의 통로 바닥이 높아진 원인은 19세기 말, 전차가 숭례문의 홍예를 통과하게 되면서 성문 구조에 대한 손상을 최소화하려는 목적으로 박석 위에 진흙다짐을 하고, 전차 선로를 구성하기 위한 것으로 판단된다
◇ ◇ ◇
そのほら、城門の開け閉めならお役人の仕事でしょ、ところが朝鮮時代の半ば過ぎからその役職が無くなったのです、民営化するわけでもないし門の外側はスラム街じゃないですか。つまり清と戦争して負けた朝鮮は、城門や宮殿の修理は清政府の許可を得ること>>>っていうことを忠実に守っていたのです。だから300年も荒れ放題だったし変な人がたくさん住み着いちゃったんですね あひゃひゃっ
▲1894年イギリスの外交官ジョージカーソンの撮影した崇礼門のようす
門扉はこの当時すでに無かった。
▲1890年代といわれる写真、当時でさえ南大門は外国使節団の利用する正門ではなく宮殿から遠く離れたところに残る朝鮮時代初期の遺物だった。
※宗主国中国からの使者でさえ宮殿から遠く離れた迎恩門そばの迎賓館までしか近寄らなかったみたい
京城府庁舎建設予定地図
今の光化門通り(世宗大通り)なんて行き止まりだったんだからね
水色部分に道路を造ることにしたニホンが総督府建設を思いつくまでは景福宮は270年間も放置された焼け野原でした。焼け野原だったからニホンは総督府の建物を建てたのです。
まだ高宗が王だったころなんですが、現ソウル市庁から北に向かう道はありませんでした。地図で見る光化門駅のあたりの十字路は行き止まりのT字路でした、韓国の歴史ドラマなどでは超時空ヒデヨシ軍に勝った朝鮮軍の行列が南大門をくぐり景福宮のほうまで行進していくシーンがありますが。当時は道なんかなかったのです。京城府庁舎(いまは図書館)を作るときに道路が北に伸びたのです。
そういうことを韓国では教えていないので、”世界四大提督”といわれる李舜臣将軍が亀甲船でニホン海軍を散々に打ち破ったあと当時の朝鮮皇帝から剣をもらうシーンなどでは豪壮な景福宮などの様子が描写されちゃったりします。
※景福宮は釜山から平壌まで40日の小西行長が通り過ぎる前に朝鮮人の放火で燃え尽きていたし、朝鮮の王は皇帝じゃないし、李舜臣が王様から貰った剣なんかも20世紀になってから急に出てきたものだし、しかも偽物でしょ。景福宮と李舜臣将軍っていうのは同時には存在しないのです。 なにしろ景福宮はお役所だったし宮殿じゃないし。