韓国には世界的な自動車メーカーがあるのに源泉技術は全く無いのか
ヒュンダイ車を買ったらNGKプラグが付いてきた
点火プラグなんて簡単なもの? 韓国では国産出来なかった点火プラグの夢
[ミーナのコラム]NGK、ND、ボッシュ、チャンピオン、そのくらいが自動車に使われやすい点火プラグ(スパークプラグ)として知られています。(そのほかたくさんある)
まぁガソリンエンジンってことですからゼロ戦やムスタングにも点火プラグが付いていたし、廃番になっていても代用品番があったりするので現在でもオリジナルエンジンで飛ばすことができることはご存知だと思います。
それでもニホンにしか無くて珍しいところでは初期のロータリーエンジン10AのプラグやマッハⅢのCDI点火で使われた沿面プラグなんかがあります。
今時のことだと、イリジウムやプラチナのプラグに変えると燃焼効率がみなぎり体感パワーが120%になって排気ガスがクリーンになるけど少々お高めなんてことを心配するようなひとも珍しいかなと思います。
さてと、ニホンではベントレーやマイバッハよりも希少車として知られている世界的企業らしいヒュンダイ、KIAの自動車に使われるスパークプラグの純正指定は、なぜかNGKばかりが使われています。NGKといえばコマーシャルで聞いたことのある日本特殊陶業ですよね。
ニホンが嫌いなんだけど韓国にはスパークプラグの製造メーカーが存在しません。だから輸入するしかないみたいです
※韓国の自動車ユーザーは点火プラグの交換などに興味はありません
▲現代モービスのブランドで純正プラグを買うと、もれなくNGKプラグが出てくる。
もちろん韓国人はニホン企業が嫌いですが、走ってるクルマのプラグはNGKばっかりなんですね。 そういうわけで、韓国の自動車ディーラーでスパークプラグの品番を言うときはNGK方式のB9HSとかの言い方が通用しています。
トヨタはND(日本電装・デンソー)指定じゃないですか、そういうわけでND式表記のも韓国ではよく知られたブランドです。(韓国では1960年代にクラウンやコロナがND生産されたことがある)
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そんな点火プラグって戦中戦後のころに使われていた木炭バスにもついていました。 木炭エンジンは木炭を不完全燃焼させて一酸化炭素などのガスを発生させてそれを燃料にするものです。 それって、ガソリンエンジンの改造でしたから点火方式はスパークプラグがつかわれていたんですね。
今じゃバス? ディーゼルじゃないの? と思うかもしれませんが昔のことは知りません。
木炭バスに乗った少年が"マイカー"運転交通革命[中央日報]1988.08.13 http://news.joins.com/article/2266707『土砂降りの中に坂道を登っていた木炭バスは数度後退して、しょんぼりと立った。 木炭火力が弱く、ついエンジンが消えたわけだ。 助手が飛び降り、ボイラーの焚き口の上に木炭を入れてプルムジル)を飛ばしたが、水にしめた木炭は、めったに熱を出すとは知らなかった。 エンジンがかかるまで乗客たちは待たされなければならなかった。米軍政庁下の交通局に勤務したハムサムシク氏(60)が証言する45年の独立当時のソウルの風景だった。 3年後、政府樹立当時も、そんな情景は同じだった。45年当時、ソウルの唯一の大衆交通手段は木炭バスと電車。しかし、電車は、電力供給不足で運行する日より休む日が多く、西部映画の中の駅馬車を連想させる乗合馬車が乗客(?)をいっぱい積んでがらがらと通りを走ったりした。
米軍政庁政府高官らが搭乗したガソリン乗用車はその時まで貴重なものだった。解放された45年当時、タクシーはどうだったか1942年に入り、タクシーも非常緊急動員用や救急患者輸送用のほかには運行が全面禁止された。 さらに、終盤には、日本軍が戦時動員車両に指定してタクシーまで徴発してがほぼ全滅状態だった。 ソウルの場合、戦争の前、900台あまりのタクシーや一般乗用車が運行停止や徴発を受けて50台余りしかなかった。 それも廃車直前の古物タクシーがほとんどだった。
※終戦直後の東京市内の各種クルマはおよそ1万台
というわけで、ニホン総督府が無くなると半島に残された韓国人(1948~)によって日本人の資産が次々と略奪されることになりました、店にあったものは持ち去られ、工場は材料が運び出され、運良く破壊されなかった酒造メーカーのいくつかは操業を再開しようとしながらも原料の輸入を断たれた状況では、まさに知らない機械がそこにあるけど何に使う物なのか全然分からないという状況になったのです。
当時までの朝鮮人にとっては自家用車どころかタクシーですら高根の花で、韓国人が後席に乗ることなど無かったし、運転すら韓国人にはムリなことだと判断されていたようです。 ※朝鮮人運転許可証取得者別表
それでもソウルには主(あるじ)を失ったクルマが相当数残されていました。京城は連合軍による空襲を受けなかったのですが、燃料事情は太平洋戦争開戦前くらいの状況でアメリカ軍政へと引き継がれたわけです。
ニホン総督府にあったぴかぴかの黒いフォードの1936年式などの公用自動車も引き揚げのどさくさで韓国人の手に渡りましたが、それすら半年ののちにはスクラップになっていたりしたわけです。
ソウルにあった各種のクルマや市電などはメンテナンス(燃料補給など)が断たれて、次々を動かなくなったし、アメリカ軍政はクルマなどの近代産業機材よりも、飢えた韓国民への食糧支給対策に追われて まあ無法地帯だったんですね。
次回、昭和初期~石油発動機の夢(韓国激闘篇)