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虎食塚というのがあるんだ、平昌周辺

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〝虎食塚〟虎に食われた人骨を拾い集めて積み石をした
 
襲うのは猛獣ばかりじゃない、追い剥ぎが出る朝鮮道中
それでも人里近くに住むよりは暮らしやすかった韓国の秘境生活
 
最終更新日時2017/5/27
 
イメージ 2[ソウルミーナ]韓国の山間地域(秘境駅周辺くらいのイメージ)には虎食塚という特異な形の墳墓が存在する。 虎が食べ残した、人の遺体を火にくべた後ドルサンジャに灰を入れてその周囲を石で高くして上にドルシルを入れる形のお墓である。
※何やら食べ残された骨を焼いて集めて化けて出ないように石を積んだらしい
 
 
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▲周囲1~2m高さも同じくらい、尾根道からちょっと入ったところに突然現れるらしい
 
 
遺体を燃やすのは、チャングィを完全に無くすというもので、石を積むことは神聖な地域であることを意味すると同時に チャングィを重い石で押して身動きできないように閉じ込める、金駅であることを表示するものです。
この虎食塚は朝鮮時代の山間地域にはよく見ることができたが、これについての伝説もたくさんあります。
 
 
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▲積み石は朝鮮時代に多く作られたもの、犯罪人が山に逃げ込んで自分が喰われたことにすれば追及の手から逃れることができる。
 
チャングィ(倀鬼)。
チャングィという虎に食われた人の怨霊を指す言葉であり中国と韓国、インドから伝わる幽霊です。特に我が国はチャングィに対する民間説話が多いが、それだけトラに食われた人が多かったということを話します。'朝鮮時代の作者未詳の晴雨奇談(聽雨奇談)'を見ると、チャングィは虎に食われた人の魂で、あの世へ行けず、ひたすら虎の奴隷になったり、虎の体にくっついてと言います。

チャングィには、いくつかの名前があるが、パク・チォンの'胡質'には`グルガク(屈閣)'などの名前で呼ばれてきてパク・チォンの胡質ではチャングィやトラが両班を叱責する肯定的な姿で出ます

これは他の人を虎に食われさせることで山窩を害する悪鬼的行為です。
チャングィはいつも買った人たちを捜し回りながら、新しいチャングィガムを探すのに、その人を殺して呼び出したり誘引して虎に連れて行くと言います。
それで虎に食べられする人たちは、他の人が止めてもしきりに出て行こうとするなど、異常な行動をすると言っています、チャングィに書いてそんなことです。
また、逆に、虎に差して虎に狂気を引き起こすことにして人々を殺生するように操縦する場合もあります。
虎は満月が浮く14歳の直後になれば、理由もなく与えて暴れと言うが、これがチャングィためだということです。
チャングィは怖くて何度ために以前からチャングィを防ぐ法が伝わってきました。
一番良い方法は人を食べたトラを捕まえて虎に死んだ人の孫が虎の心臓をいたずらに噛んで食べ方です。
それではチャングィの思いが消えてあの世へ行くと信じました。
また、他の方法はチャングィが通っていないように統制するんです。
 
韓国には険しくない山にも森が鬱蒼として昔から虎が多く生息しました。
その庭に遅くて力弱い動物である人々は虎に食われた事例が数え切れないほど多く、
虎を恐れて"鬼に噛まれて行くやつ"という悪口まででき、悪徳な伝染病(コレラ)名前を`ホヨルジャ(列剌)'としたりもしました。
'朝鮮王朝実録'を見ると、太宗2年に慶尚道(キョンサンド)で虎に噛まれてが死んだ人が数百人という記録があり、中宗19年には黄海道で虎に傷つけられた人が40人もいるそうです。英祖19年には平安道(ピョンアンド)江界で20人が虎に噛みつかれて死亡しており、英祖28年には虎が景福宮の後苑に入り、英祖30年には京畿道で一ヵ月間、虎に噛まれて死んだ人が120人余りもなったという記録があります。
このように、漢陽(ハンヤン)の真ん中にもトラが現れるほどだから、山間地域の虎出没は頻繁に発生するほどでした。
 
太白山脈のオミサンイン太白山を中心に四方200~300里内には昔から火田民が多く暮らしました。そしてこれら火田民が着た虎に対する被害は言葉そのまま一度や二度したとします。
 
記録によれば、太白市鉄岩洞ボドゥルゴルソルトンパウミッ火葬場など、太白に33ヵ所、
三陟市魯谷面サンマウプ里ボムドゥンゴル虎食塚をはじめ、三陟に53ヶ所、
旌善郡北面ユチョンリ松川渡りゲクムボルソクゴル虎食塚敷地など、旌善に33ヵ所、寧越(ヨンウォル)市上洞邑クレリ?虎食塚敷地など、寧越に5ヵ所など。
 
江原道(カンウォンド)で慶尚北道一帯の山間村に至るまで把握されたところだけでも、なんと158ヵ所に達します。
こんなところには間違いなく虎食塚が入っており、10年前までも虎食された状況の目撃談を生々しく証言してくれる村の年寄りたちが住んでいたします。
 
それではなぜ太白山一帯の人々は虎の餌食となることも辞さず、そこで暮らしたんでしょうか。いろいろな理由があるが、当時、混乱した社会雰囲気が決定的な理由になりました。
 
"厳しい政治と管理の横暴、過重な税金は虎よりも恐ろしい(苛政猛於虎)"は孔子の言葉のように、
太白山脈内に入って住んでいた火田民の中には厳しい世の中、過重な税金や賦役などから逃げ出してきた人が多かったです。
彼らはむしろ虎に食われても国の様子は見ないという気持ちで、焼畑を耕して暮らしていたが、虎食塚にされた状況を神聖な境地に格上げさせて悲しみを美化しようとしました。
 
韓国の山霊が虎などを乗って奈多通うのもここから由来されたとします。
 
また、韓国の説話を見ると、虎は愚かであほらしい姿で表現されるが、これは虎を格下げし、心理的優位を占めて虎に対する恐怖心をなくすという意志表現と申します。
 
 
(ところどころ翻訳/みそっち)
 

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朴正熙元大統領の家族が新年に敷いた虎の皮、
 
 
イメージ 7まぁ加藤清正の虎退治などで知られるように朝鮮には虎が出たんですね。
と言っても虎退治にも諸説あるみたいですが、そーいう細かいことは本編にはあんまり関係ないので先に進みましょう。
 
その後、明治・大正時代になりニホン人が多く出かけるようになると〝ビッグゲーム〟として虎退治がブームになったこともありました
 
有名なところでは成金(お金を燃やして足元を照らす人)などによって大勢の現地人を雇い組織的に朝鮮虎退治が挙行されたりもしました。
 
というわけで、朝鮮には大型肉食獣が棲んでいたんですね。(人型犬食種は韓国固有種)
 
 
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凄いですねヒョウですよ。  虎皮よりもしなやかな豹皮のほうが毛皮としては珍重されていました。(あの中国への貢物も毎年豹皮100枚とかあった?)  
 
 
 
◇ ◇ ◇
 
 
虎がタバコ吸っていた時代はいつか

昔話に登場する"虎がタバコ吸った時代"厳然とした事実さえも一蹴する韓国型論理
コロンブス以前から、朝鮮ではタバコを吸いトウガラシを食用にしていた超時空思考


イメージ 1イメージ 5[日曜ミーナ]'雪が降った深い冬の夜に子供たちはおばあさんの周囲に集まってくる。 藁ぶきの屋根の上に雪が積もって、障子紙を塗った戸口の隙間の間から激しい風が漏れてくる。 子供たちは、それぞれ暖かいところを占めるために尻を互いに踏み入れている。 かまどに火をくべて,部屋には火鉢の火をおこし子供たちはオンドルのたき口に近い所に散らかった布団に足を踏み入れておばあさんの口を眺めている。おばあさんは火鉢の灰をかき混ぜながら昔の話を始める。

"むかし、むかし、遠い遠い昔…虎がタバコ吸った時代に…よく泣く子が生きてきたのに…" おばあさんは話の包みを広げるし、子供たちは宝物の話を逃すまいと耳をピンと立てている。

これが1960年代韓国農村の冬の風景だった。 私は夏休みになったら田舎のお祖母さんの家に数日ずつ滞在してきた。 その時、おばあさんは昔話をよくしてくれた。 子供たちはお婆さん部屋に押しかけて話をしてほしいと押しつけて、おばあさんは快く話包みを解いておいた。 その度に話の冒頭に登場する"むかし、むかし、遠い遠い昔…虎がタバコ吸った時代に…"のくだり…。


イメージ 2

▲韓国人のイメージするタバコを吸う虎

おばあさんのお言葉を聞きながらいつからか、その"虎がタバコ吸った時代はいつでしょうか。"というとんでもない疑問を持ったことがある。 私が歴史の勉強を始め、幼い時持っていたとんでもない疑問が蘇っていて、それを知るために尽すたことがあった。

虎がタバコしていたころは?
虎がタバコ吸った時代はいつでしょうか。 タバコは韓国にいつ伝わってきて、人々はどうやって煙草を吸い始めたのだろうか。 そのような疑問が引き続き起きた。
煙草が韓国に伝来した時期はそう昔ではない。 今から約4百余年前のことだった。 つまり16世紀末17世紀初めに煙草が韓国に伝来された。
ニホンが朝鮮を侵略して入ってきた文禄・慶長の役の頃にニホン人がタバコを持ってきて伝来したものと推定される。
具体的な記録を見てみよう。 我が国最初の百科事典”五洲衍文長箋散稿”には"煙草が韓国に伝来したのは1618年だった"と記録されている。 <紀年通告><大同紀年><芝陽漫錄>など朝鮮時期の著書にもタバコが1618年に伝来されたと書かれている。

タバコに関する記録が政府の公式文書に初めて発売されるのは<朝鮮王朝実録>の仁祖(仁祖)王の時だった。 仁祖16年(1638)の実録には次のようにタバコに関する記録が出ている。
"このフル(タバコ)は1616年と1617年の間に海を渡って吸う人がいたが、盛んに行われなかった。 その後、1621年と1622年以降は(それが盛んで、タバコを吸わない人がなかったし…種をまいて収穫して人同士で互いに交易するに至った。"

つまり、政府記録によると、1616年頃にタバコが伝来されて1621年以降は吸う人が増え、それによってタバコを植えて収穫し、さらにはタバコをお互いに取引の材料に使ったというものだ。

このように当時の著書にはタバコが1616年や1618年頃に伝来されたと書かれていた。 しかし、タバコが伝来した時期はそれ以前だった。 朝鮮時代初の実学者であるイ・スグァンは1614年、自分が著した<芝峰類說>という本で"ダムパコ(タバコ)は名無し草だけど、南霊草(南靈草)とも呼ばれる。 近来にニホンからきており、…現在、人々はそれをたくさん植えている。"と記している。 本を書いた1614年当時には既に人がタバコをたくさん植えてたとしたら、その前の時期に伝来されたという事実を知ることができる。

タバコは文禄・慶長の役の頃、日本から伝来された
1614年より移転時期に伝来されたという事実は次の例で見ることができる。 一つは、朝鮮時代の儒学者の言葉だ。 英祖時代の学者であるベクギュチャン(白奎昌)は"男が大勢(タバコの別称)は本来島の蛮夷の与謝を感じた解釈だが、文禄・慶長の役の時はじめて韓国に進入し、それ以前にはなかった草だ"と言いました。
また、正祖時代の学者であるイヨンオク(李永玉)とウハヨン(禹夏永)はタバコが先祖の時(1568~1607年)からあったと話した。 これらの言葉によるとタバコは先祖の時からあった可能性もある。

他の一つの例は1619年に慶尚北道チョンプンキ郡守(前豊基郡守)だったコサンアン(高尙顔)が、尚州の地方の営農の指針書と24節がの農作業を書いておいた<農家、月齢(農家月令)>で2月と5月にダムベシ(たばこ)をまいて移植するという事実を記録したためである。 一つの新しい農産物が伝来して定着するには、多くの時間がかかる。 その作物を試験的に植えて育ててみて、ある程度韓国の風土に適応してこそ農書や農家、月齢などに記録して、農民たちに推奨することができる。

同様にタバコも伝来され、我が国の気候風土に適合して実験して栽培するようになるには、時間が必要だった。 つまり1619年に作られた<農家、月齢>に記録されるには、少なくとも十数年前に伝来されて栽培されたとみるべきだろう。 そのような事実に推してみればタバコは1592年に日本の日本軍が韓国を侵略する時に、持って入ったことを韓国人が受け入れて試行錯誤を経て、実験を経た後に栽培されたり、あるいは文禄・慶長の役が終わった後、日本と再び釜山で開始貿易(開市交易)を始めた1609年ごろに伝来されたものと考えられる。

このような見解を総合して見ると、我が国にタバコが伝来されたことは概ね16世紀末の文禄・慶長の役を前後して行われており、伝来されたばかりなので急速に普及して17世紀初めには多く栽培されて消費されたことを知ることができる。
それでは煙草が韓国に伝来された経路を見てみよう。

タバコの世界の伝来はコロンブスのアメリカ大陸発見から
タバコが世界各国に伝来され始めたのはコロンバス(Columbus)のアメリカ大陸発見から行われた。 コロンブスが1492年にアメリカ大陸を発見して上陸したら、アメリカインディアンたちが葉を壊して台に留めて一生懸命に煙りをとどろかせながら何かを吸っていた。 その形があまりにも神秘てコロンブスがそれが何かというから、インディアンが神経痛に良い薬草としㅆドランダ。

そうしてコロンバスはインディアンからダムベシを得ており、地元人ウロプに戻って自分を支援してくれたスペインの王室に贈り物に捧げた。 スペイン王は、王室の庭園でタバコを栽培しており、それを薬草と考えて咲かせた。
当時、世界を制覇していたスペイン王室はタバコを欧州に伝播させ、欧州に広く広がるようになった。 その後、タバコはアジアに伝来されるようになっており、それが日本に伝来されており、日本から再び朝鮮に伝来されることになったのだ。

最近では、タバコが百害あって一利なしで取り上げられているが、実際に百害あって一利なしなのかはよく分からない。良い点もあり、悪い点もありますが、今では悪い点がより浮き彫りにされているではないかである。朝鮮時代/低開発国では一般的に幼い子供はタバコを吸ってくわえている言及をたくさんする。これを今の子供たちも変えることができますが、朝鮮時代の子供たちは、自分の力で火を吸ってタバコを付けるのは難しい。言い換えると、大人が子供たちの喫煙を単純幇助だけでなく、いくつかの奨励したりしたという意味で理解される。この背景には、タバコの薬理作用の信仰があった可能性と考えられる。

交通通信が非常に不便だった時代だったが、わずか10~20年であれば、国全体の、隅々までタバコが伝播された。国内歴史の中で最も急速に文化が隅々まで伝達されたことを示す事例ではないかと思う。
タバコとほぼ同じ時期に伝来した唐辛子の場合、韓国に広く伝播されるまで、かなり長い時間がかかり、すべての食品が赤く染まるされたのは、それよりはるかに後ということを考えると、タバコは記録的な事例ではないかと思われる。特に長い戦争で国土が荒廃した状況で、食べていくにも難しいタバコがそれほど速く広く普及したのは不思議なことである。


タバコの多様な名
タバコは伝来された当時に様々な名称で呼ばれた。 伝来される初期には薬草として認識され、そして南から伝来されてきた神秘的な草という意味で、'、南霊草(南靈草)'と呼ばれた。 一方、タバコが英語では冨波甲(Tobacco)で、日本に伝来し、タパコ()になり、それが朝鮮に伝来される時には陰にそのまま伝わってダムパコ(淡婆姑)、ダムパクグェ(淡泊塊)などと呼ばれたりもした。
また、伝来される初期にはタバコをご馳走する時、お茶やお酒〔酒〕の代わりに、よく使用したために、開く(烟茶;煙や茶)または烟酒と呼ばれたりもした。 しかし、一般的に朝鮮の時期は、南方から伝来されてきた解釈として男が大勢(南草)と呼ばれたり、芝居いう草として、年明け(煙草)と呼んだ


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朝鮮時代には5歳の時からタバコを吸っていた
タバコは伝来されるやいなや、急速に伝播された。 伝来される初期にはタバコが薬草として認識され、伝播力が大きかった。 "病んだ人が吸ったらいいだ"とか"酒を破ることにする"でもあるいは"消化をよくしたとされる"などの噂とともにタバコは早いテンポで広まった。 さらに、一度タバコを吸うと、インがにじんになって簡単に断ち切ることはできず、普及速度が速かった。
これに"吸う人が多くなったので植えている人も多くなる"という当時の表現のように吸いたいって言う人たちが多くなると、タバコを植える人も大きく増加した。 農民たちは、票田に煙草の葉を植えてタバコを吸っていた。
儒学者のイ・スグァンはその状況を1614年に著述した『ジボンユソル』で"今の人たちはタバコをたくさん植えている"と記している。 タバコの消費は増え、タバコを栽培する農家も増えた。
タバコは農家で栽培する必須的な農業作物になった。 風紀郡主だったコサンアン(高尙顔)が1619年に建てた『農家、月齢』には慶尚道(キョンサンド)地方でダムベシを撒くのを描写するほど広く行われたのだ。


タバコが伝来した初期には、すべての階層が咲かせた。
タバコは時間がたつにつれて薬草よりは嗜好品として愛用され、ひいては、お客さんをもてなす時に車や酒の代わりにタバコを勧める風習ができて開く(煙茶:'の演技や車'という意味)または演奏(煙酒)と呼ばれたりもした。 そうしてタバコの需要は急激に増加し、タバコを吸う人も両班(ヤンバン)だけでなく、上は大臣から下は平民はもちろん、賎民まで拡大された。 また、男はもちろん女も咲かせた。
これと一緒にタバコは伝来されるやいなや、急速に普及した。 孝宗(ヒョジョン)大王の職人でありながらタバコをよく吸っていた長幼はこうした事実を次のように描写している。
"タバコを喫煙するのは本来、日本からきた。 日本人はそれをダムパグェラコするが、その草は南陽(南陽)の国から来たという。 韓国には20年前に初めて伝来されたが、今日に慰めはコンギョンデブから下は木洞(ヤンチョング・モクドン)の天人まで、吸わない人がない"
彼は1635年に出版した『ギェゴクマンピル』という自分の著書で、伝来されてから20年しかなかったがもう上は大臣から下は木洞(ヤンチョング・モクドン)の天人までタバコを吸うと書いている、これと一緒にタバコは朝鮮に伝来されるやいなや、急速に伝播された。

さらに、5歳の時からタバコを吸っていた
このように、当時朝鮮人がタバコをよく吸ったという事実は外国人の目にも奇妙に映るほどだった。 オランダ人であり、東インド会社の商人のハメル(Hamel)がそのような風俗を記述した。
1653年に彼はオランダで商船に乗って日本の貿易の上司で向かう途中嵐に遭って済州島に漂流したが、朝鮮政府によって抑留されて13年の間、朝鮮で生活したが、朝鮮を脱出して(1666年9月)、オランダに帰ってその間の生活と朝鮮で本状況を本として発行した。 それが『ハーメル漂流記』だ。
その本で朝鮮人がタバコをとても好きだった風俗を記録している。
"現在、朝鮮人たちの間にはタバコが非常に盛行し、子どもたちまでも4、5歳の時にすでにこれを習い始めて、それで男女間にタバコを吸わない人がごくまれである、初めてタバコが入ってきた時に彼らが銀の重量でこれを貿易し、その理由で(タバコが私は)ナムバングクを世界の中で最も素晴らしい国の一つとして見上げることになった。"
つまり、ハーメルが見から、朝鮮の人たちは4、5歳の時からタバコを習い始めて、男女を問わず、すべてタバコを吸うタバコの天国だったのだ。 当時にタバコの価格が高すぎて銀で貿易するほどで、タバコを生産するナムバングクを世界で最も素晴らしい国で見上げることになったということだ。
初期には、タバコの価格が非常に高く、貴重なものだった。 タバコが伝来される初期にタバコが急速に普及されると、多くの人がタバコを吸うようになり、彼によってタバコ価格は非常に高く、タバコは貴重なものとして扱われた。

具体的な例を挙げてみよう。 朝鮮仁粗大王はタバコ1斤の価格が銀1両になるほど高く、(1624年)、『ハーメル漂流記』でも現れるようにタバコを取引する際、銀(は)で売り買いとした。 官庁ではタバコを銀や紙などの物品とともに高利貸資金にも活用した。 つまり1642年に義州(義州)のコカチョン(雇價廳)では3千両、紙8千冊、タバコ3百斤などを高利貸元金で活用して官庁の経費を調達した。
※朝鮮時代は紙があまりにも高価だったため物々交換の材料として取引された。
パチンコ屋のハンカチのような役割で、実際に使用されることはなく取引された)

さらに、品質が良いタバコは貴重なものとみなされ、賄賂として活用されたりもするほどだった。 粛宗王の時、武人徐穉が官職を救うために吏曹判書ミンジョム(閔點)の娘婿にタバコ1荷駄(テ:馬の背に1荷物を預ける重さ)を賄賂で与えて監察の官職を得たことが発覚し、調整に大きな混乱を巻き起こしたこともある。

タバコの価格が高いという事実は、当時の民謡にも表れている。 タバコが伝来された当時の慶尚道民謡と思われる民謡の歌詞は内容がこうだ。

耳は耳だよダムパグィは東莱、蔚山(ウルサン)のダムパグィだよ
銀(は)をやるために外に来たのか金(金)もくれたとしてきた
温度なく、金もないダムパ耳氏をガトイコ来た
あそこあの山の下にダムパ耳氏をソルソルイかけて

上文でタバコを'ダムパ耳'としたことをみると、タバコが伝来される草創期の民謡として予想することができるが、その民謡でタバコが貴重な資産である銀や金と比較され、銀や金の代わりにダムベシを持ってきたといわれているのだ。

丙子胡乱の時、朝鮮人捕虜たちを送還してきた際もタバコが必要だった。
タバコは外国との捕虜交換と貿易取引でも大事に使用された。
1636年に女真族らが朝鮮を侵略する丙子胡乱を起こした。 そして女真族は朝鮮人を捕虜に連れて行ったが、その数が10万人に達した。 女真族たちはその捕虜たちを中国奉天市場に売りに出されたが、そこで朝鮮人家族が会って抱きしめて号泣する場面が目も当てられない状況だった。 この捕虜たちを連れてくる見返りが多ければ数千両に達し、少なければ数十両に達するほどだった。

戦争後に朝鮮政府ではこの捕虜たちを連れてくる問題が急務であり、解決策を模索したが、両親兄弟、妻子を失った人はたった一時が急務だった。 彼らは政府との交渉を待ちきれなく、私的に清に行って捕虜の家族を連れてこようとした。 当時、女真族の軍人や官僚らはタバコを見て非常に良くてはまってしまった状況に置かれていた。 そうして朝鮮の人々は銀、綿布、紙、タバコを持って行って、清の官僚や軍人に与えて捕虜の家族を連れてきた。 特にタバコはチョングク人に人気のある物品であり、嗜好品だった。

清国との貿易品にもタバコが多く輸出された
中国に使者に行った使節団は正式の使者と通訳官や商人で構成された。 彼らは、必要な費用を用意して貿易を通じた利益を得るために、中国人に人気が高い高麗人参・タバコ・キセルなどを持って行って販売して路銀の足しにしたり、お金を稼いできたりもした。 特に、商人らはこのような物品をたくさん持って行って清国人らに販売して多くの利益を得ることもあった。 一例として、『トンムングヮンジ』という本によると、使臣が国境で中国の首都である北京まで一度往復するのにタバコ、約4千箱、キセル約1,800個に達するほどの多い量を持って行った。 使臣がこれほど持って行ったから、同行した訳官や商人たちは経費と商品販売用にはるかに多くの量を持って行ったのだ。
そうして中国では、朝鮮のタバコがあまりにたくさん入ってきて、その見返りとして銀貨などの物品が出ると、1638年には清の太宗皇帝が直接タバコを吸うのを禁止する法令を公布していたほどだった。 このように当時、日本、朝鮮、清など東アジア社会でタバコが与えた影響は大きかったのだ。
モンゴルで牛を購入してきた際もタバコが使用された
韓国でモンゴルから牛を買い入れるのもタバコが使用された。 丙子胡乱の後に全国に牛の伝染病が蔓延して農業を営みえないほど多くの牛が死んだ。 これに調整ではモンゴルで耕作する牛を購入してきたいたが、牛を購入してくる代わりにその交易品として綿布や獣の皮やタバコを与えた。 当時、モンコインもタバコを好き、牛を輸出し、その見返りにタバコを受けるほどだったのだ。
このように、わが国だけでなく、東アジア社会にタバコが伝来し、当時の人々に大きな影響を及ぼした。 タバコは経済生活と文化生活にも、大きな部分を占めることで、人間の生活に重要な比重を占めるようになったのだ。


(翻訳:みそっち)



っとまあこの内容ではタバコの伝来については比較的正しい認識をしていますが、こういうのに限って”丙子胡乱”を正しく認識していないんですよ。朝鮮の宗主国が明から清に変わ

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