◆学校には'日本軍国主義'まだ息をする
[知ってるミーナ]日本の統治下から脱し、独立を迎えてから70年が過ぎたが、依然、学校現場には日本植民地支配の残滓が消えていない。
すでに知られている通り、卒業式の際、校長の誨告辭、学年末の学生たちの卒業するかどうかを決めるために開かれる査定會などはいずれも国語辞典にも出ていなかった日本式の単語だ。 しかし、韓国語のように依然として使われている。 また、朝礼や頭髪・服装検査などの校門指導も日帝の影響を受けたというのが学界と専門家らの主張だ。
◆なんと1995年まで”国民学校”だったらしい
もちろん、変わったものもある。 政府が1995年8月11日、国民学校の名称を小学校に変えた。 国民学校の国民は、日本皇帝の臣下とした民という意味の皇国臣民(皇國臣民)の略語だ。 しかし、この名称を日本の植民地支配期後半の1941年から50年以上使用していた。 日本が日の丸を額縁に入れておいたことをそのまま使ってきた教室額縁太極旗も2002年からほとんど姿を消した。
軍事訓練などが中心だった教練の科目や日本の武士らが、敵の首を打きた数を等級につけたとされる秀-優-美-良-可がやはり歴史の中に消えた。
◆日本軍国主義、まだも、韓国の学校現場に
日本は1938年国家総動員法を宣言する。 日中戦争を起こした後、戦争に戦力を集中するため、日本だけでなく韓半島でも労働力と物的資源を勝手に動員するためだ。 大陸侵略の野心を燃やした日本ファシズム体制の法的基盤になったわけだ。 当時、日本植民地支配にいた我々もこのような影響をそのまま受けた。 さらに、当時は近代教育が形成されていた時期だった。
朴漢用(パク・ハンヨン)民族問題研究所教育広報室長は"当時、日本軍国主義の影響を受け、自然に'学校の兵営化'が行われた"、"兵営化は結局、最も創意的であるべき学校での統制や位階、画一などの弊害をもたらした"と話した。
特に朝の照会や国旗に対する敬礼、'気を付け、先生に敬礼!'などは、集団の統制のための手段として使われた。 クラスの効率的な統制のための班長と週番などもすべて兵営化と関係がある。 問題はこのようなものが光復以後も消えなかったということだ。
韓国学校現場は、光復後6・25後の分断状況で、安保と連結される国防などの問題が教室にまでずっと続いて、日帝の兵営化は、現在も一部続いている。
朴室長は"このような内面的精神を教育を受けた人たちが、韓国教育の既成世代になってしまったのも問題"だとし、"単純な言語や形式上の日本帝国主義の残滓の清算がなく民主市民の場に戻る根本的な教育が行われなければならない"と強調した。
◆過度な入試競争も日帝残滓
日本は統治の基盤を確実にするため、韓国人の愚民化を図った。 このため、韓国人知識階級の拡大を阻止しなければならない、上級学校の入学許可者数を制限した。 このため、大学の序列化が発生し、過度な入試競争も現在まで続いているということの学界の大方の見方だ。 また、当時京城帝国大学などの入試で日本語(国語)、英語、数学などの配点を高めながら、国・英・数が重要科目として浮上しており、残りの科学・社会分野の科目はただ暗記科目と認識されてきたのが今なお下りている。
朴熙(パク・チョルヒ)京仁教大教授は"近代教育が植民地時代に形成され、大学を行かなくちゃ、出世をしかねないという風土が生まれた"、"単に日本帝国主義の残滓の清算ということで、アプローチするよりは韓国の教育全般、社会全般に残っているこのようなシステムは徐々に改善していかなければならない課題"と話した。
(翻訳:みそっち)
あれも日帝、これも日帝というのがこの時期になるとはじまるんですが、どうみても5年前や10年前の話題をもういちどそのまま引用しているような記事が増えるのも今に時期ですね。
韓国側の資料ではニホン語由来の言葉は3割程度といわれていますが、これがどうにもあやしいのです、朝鮮時代に無くてニホン統治時代に導入されたものにはすべてニホン語由来の言葉が使われていますよ、ハングルの発音をカタカナで書くとわかるんですがどうもニホン語由来は7割を軽く超えるんじゃないかとおもいます、
すでによく知られているように朝鮮時代には学校というものが全くなかったわけです、無かったところに作るためのお金はニホンが貸しました...これがあの大韓帝国滅亡の原因となった借款だそうですよ、1906年に義務教育令ですね、当時の学齢期の子供の数はおよそ250万人だったそうです、その全員を収容できる”学校”というものを強制的に建てたのです 学校は便利なところにあるのがイイですからイイところを収用したりして小学校をつくっちゃいました とんでもないですね
※最初の頃から就学率87%とかだったみたいです そりゃそうだ
とにかくニホンと同じ水準にしなきゃってことで初等教育からやらなきゃダメだったんですね、その中から出来のイイのはニホンに留学したりしていたわけですよ。
ニホンの教育制度に合わせちゃったのが、なにしろ朝鮮の歴史始まって以来の義務教育ですから反対する親も多くて、今では給食まで義務だから学校が負担しなさいなんてことになっていますがとにかくニホンが文明開化させちゃったわけですよね。
ちなみに”韓国の義務教育の歴史”というと1948年から始まるようです、義務教育を始めたのがニホンだったなんてこと認めたくないでしょう、それで大韓民国から義務教育が始まったようにされているんです、これ間違いじゃないけど、”国民学校”がニホンから消えたそのあとに”国民学校で義務教育をしていた”っと考えちゃう韓国人の二重性がよくわかるはなしです。
学校や道路をつくるために当時の朝鮮のひとを動員しようとしたんですよ、いくらなんでもニホンの親方の指図があれば少しは役に立つだろうってね、ええ、彼らは全くの役立たずでした。それでもすこしは理解のできるのがいたらしく、言葉巧みに朝鮮人を現場に集めることができたようです。そこではじまったのは朝鮮社会特有の仲介業でした。これも仲介業が儲かるというのは当たり前でしたから社会構造の変化が理解できなかった多くの朝鮮人にとっては搾取のように感じられたかもしれません。
やがてそんな”ニホンの手先”になった者とそうでない者の間で葛藤がはじまります。
ニホンの手先となって労力を提供したのが後の親日派だったり財閥になったということは言うまでもありません。
働かなくても残飯をたべて暮らしていけた生活から、働いてお金を得てそれで暮らすという意識改革から始めなければならなかったのですね、ところが当時の朝鮮人は働いた代償を得たことがないですから、働くということが理解されないわけです、朝鮮時代の賦役のようにタダ働きだとおもってだれも集まらないのですよ、 そしてその支払いも”お金”なんて朝鮮時代までは流通していませんでしたから”コメ”で寄越せというのです。
そんな朝鮮人に働いてもらうために当時の明治政府はニホンからコメを運んで食べさせていたのです、その後ニホンのお百姓さんの指導でコメの収量が飛躍的に上がったり新田が開拓されたりしたんです。貯水池という概念もニホンの統治がなければ朝鮮人の頭では思い浮かばなかった高度な土木技術だったんですね。
朝鮮人はお金も見たことがなかったらしいですよ、朝鮮通信使なんかが残した記録ではニホンではお金が流通しているということに驚いています、あれで、ニホンにやってきたのは当時の朝鮮のエリート階級なハズですが、アガリを巻き上げる対象が朝鮮のお百姓さんだったので現物しか入ってこないのでお金なんていうものは見ることもなかったんでしょうね。 これは物々交換がで済ませていたからかもしれません。
朝鮮はコメの栽培技術が直播きでしたから、当時のニホンの4割程度の収量だったのですね、それでも暮らして行けたシアワセな国をむりやり文明国に併合しちゃったからいまの韓国人の勘違いが続いているのです。
※コメの増産は1920年頃から本格化したみたい、それに溢れたのがあのテロ集団です
そのコメですけど当時の朝鮮人はほとんど食べたことがなかったものなのですよ、どのくらい食べていなかったものなのかというと、朝鮮時代末期の租税の数字が割と簡単にでてきます、それによれば穀類の租ではコメではなく、雑穀ばかりが収められています、コメの割合は3割程度ですよ、(コメといっても収量の少ない品種だった)あとはコウリャンとかアワひえのような小鳥のえさみたいなものばかりなんです。隠れてコメを食べていたのではないかなんていうお花畑説もありがちですが、いくつかの資料でみると水分多めの雑穀汁を食べていたことが明らかになっています。ええもちろん繊維質も十分なので噛むチカラが発達しますからあ~いう顔になるわけです。
ただし、戦後のニホンのような農地解放したわけじゃないので小作と地主のような関係は残っていました、当時の朝鮮人のお百姓さんは朝鮮時代末期から徐々に両班身分を買ったのですがそれが増えてゆき小作と地主をやっていたのです。
人数的に見ても小作人のほうがはるかに多いわけですからコメの増産が進んでもあんまり分け前は増えなかったでしょう。しかも働き手のこどもを学校に行かせなきゃなりませんから農民の不満も増えてみたりするのです。 ひどいね
朝鮮時代は農業生産が上がらないので小作農家の子供のうち出来の悪いのは家から出て放浪生活をしていたかもしれません。だからといって国定忠治みたいな徒党を組むようなのもいませんから追い剥ぎになるわけです、とくに地図にも載らないようなところに山賊化して住んでいるなんてこともあったみたいですよ。
そーいうのを取り締まったという記録はいくつも残っています。そういう世の中ですから隣村にさえ出かけなくなり世情に疎い朝鮮人ばかりが選抜されて残るようになるんです、そんなのを文明国にしようとした明治のひとって偉いですね♪