1949年政府の'独立記念日'を国会で'光復節'に変更、それから'建国'消えて
[ソウルミーナ]1948年8月15日、大韓民国は世界を向かって独立を宣言した。 1949年6月、政府は'祝日制定に関する法律案'を国会に回付した。 そこで4大祝日は3・1節、憲法公布記念日、独立記念日、建国記念日となった。
同年8月15日、政府は第1回独立記念日を盛大に祝った。 ところが同年9月上法律案が国会を通過する際に独立記念日が光復節という呼び名に変わった。
光復節の'光復'は何か光栄に回復するという意味だ。 1910年代から海外の独立運動家たちは'光復祖国'または'光復独立'のために身を捧げた。 そんなに歳月が流れたため、'光復'二文字だけでも祖国をまたは独立を光栄に回復する闘争という意味が十分だった。
国会が独立記念日を光復節に変えたものは当時の人々に独立や、光復(クァンボク)やその意味が同じだったからだ。 つまり、単なる名称変更に過ぎなかった。 そのため、政府は1950年を第2回光復節に、1951年を第3回光復節に合わせた。
解放と独立記念日が重なって
ところが1951年から混乱が生じ始めた。各新聞は第3回光復節を第6回光復節と呼び始めた。 光復節の起源が1945年8月15日に変わったのだ。 以降、政府も、ひそかに光復節の起源をそんなふうに変えた。 それで1954年は第9回光復節だった。
※韓国の光復節には第4回と第5回が無かったらしい
以降、これまで光復節の周年は1945年を基点に考えてきた。 この60年間の光復節は韓国人が日帝から解放された日を記念する祝日に式典とされてきた。
このような混乱が発生したのは、いろいろな原因がある。 第一は、歴史の偶然だ。 もし大韓民国を建国するための最初の政治的な手続きである総選挙が1948年5月ではなく、3月に実施されていたら、独立宣言は同年6月中に行われたものだ。 それでは独立記念日が8月15日と混同されるわけがなかった。
5月10日に総選挙を実施したために5月30日制憲議会が召集され、この議会が7月17日、憲法を制定し、7月24日、これによって初代大統領が選出され、就任し、この主導で8月4日までに行政部の樹立が完了した。 それで3年前の解放の喜びも共に祝う意味で近い8月15日に日を決めて独立を宣言したのだ。
▲1948年8月15日、政府樹立を宣布する記念式が開かれた。 よりによって光復節に政府樹立を公表したため、光復節と建国(独立)記念日が重なっており、それが建国節が消えることになった要因になった。
その移転までの3年間、韓国は米軍政下にあり、独立国家ではなかった。 当時の新聞を見ると、1946年8月15日は解放1周年だった。 1947年8月15日には解放2周年を記念する大会が開かれた。 これに関し、東亜(トンア)日報は"百万人民自主独立絶叫"という太い見出しを付けた。
光復節という言葉は見当たらず、1945年8月15日に独立したという意識もなかった。 まだ成し遂げられなかった自主独立を絶叫する期間だった。
当時の実定がこんなにはっきりとしているにも、大韓民国政府が1945年8月15日を光復節(独立記念日)の対象に祝うのは実にとんでもないことだ。 それでもそんなことが実際に起きたのは偶然にも8月15日がその日に決めていたためだ。 言い換えれば、解放と独立の喜びを共に祝ってしようと言ったが、どのように解放の喜びが独立の喜びを圧倒してしまったのだ。
第二は、韓国の反日(反日)民族主義だ。 1948年、建国当時、個人、自由、独立のような近代文明の基本価値に対する韓国人の理解は低い水準だった。 多数の韓国人は依然として伝統性理学の倫理の中で暮らした。
少なからぬ数の韓国人は、共産主義理念を好んだ。 自由の理念を信奉した韓国人は少数に過ぎなかった。 このような状況で、新生、大韓民国は国民統合のために反日民族主義を強調するしかなかった。 韓国人は自由で独立的な存在として教育されず、反日民族の一員として醸成された。
その点は大きく言って今も同じだ。 反日は韓国人の存在理由になってしまった。 "日本よ富士を自慢するな、我々にも白頭山がある"というようなことだ。
”日帝は私たちを奴隷のように使った。 総督府は、我々の土地と食糧を略奪した” このようなやり方の奴隷論ないし収奪論が根拠もなく宗教的信仰で、学生たちの脳裏に注入された。
そのため、毎年光復節を迎えては、日本の植民地からの解放を迎えた記憶が自由人の国家が独立をした記憶を圧倒した。 '光復'は真っ暗な闇をくぐって明るい光が訪れたという式の全く違う意味に変わった。 ひいては韓国民族は1945年8月の解放と同時に独立を達成した幻想の記憶が成立した。
大統領、政府高官らも建国史に無知
筆者は先日、年齢30代の官僚を対象にした講義で彼らが1945∼1948年韓国人が、米軍政の支配を受けたという事実を知っていないことに衝撃を受けたが、考えてみれば、別に変なこともない。 政府がそのようなやり方の記憶に基づき、光復節を記念してからすでに60年を超えたためだ。
第三は、学問する精神の欠如だ。 毎年光復節を迎えては韓国の建国を助けた友好国から祝電が飛んでくる。 1952年米国のトルーマン大統領は、韓国の4回独立記念日を祝うと言った。 1968年、英国のエリザベス女王は、韓国の建国20年を祝うと言った。 2010年米国のオバマ大統領は62回Korean Independence Dayをお祝いするとした。
こんなにこれまでの60年間、韓国政府はこれを数える周年と相違した周年の独立記念祝典を受けながらも、これについては冷たかった。 どの歴代大統領もどうして光復節が友邦によって独立記念日と呼ばれるのが、なぜ周年の忖度で3年の差が発生するか関心を置かなかった。
大統領をはじめとした政府の高官達さえ跡(自國)の建国史に無知(無知)した。 外交部の官僚たちも同じだった。 毎年異なる周年の祝電を受けていながら、これを上部に報告したり、友好国に対して、是正を要求しなかった。 それでは専門的職能に基づいた近代的官僚集団とは言えない。
政治学者や歴史学者だって違うことはない。 2008年の某政治学会が建国60周年記念学術大会を準備したが、いくつかの会員の抗議を受けて'建国'を'政府樹立'に変えるコントが行われた。 いくつかの会員が、大韓民国はすでに1919年に成立したと主張したようだ。 海外の独立運動家たちが臨時政府という団体を構成したとしてそれが国際社会が公認する国家になるのか。
また、いくつかの会員は1948年8月15日に建国ではなく、政府の樹立が行われただけだと主張した。 当日に'政府樹立'を記念するプラカードが式典にかかったのはそれ以前に国会と司法部の樹立が完了し、最後に残った行政部の樹立を祝う趣旨だった。 5月の総選挙以後、国会召集、憲法の制定、司法部の構成、行政部組織の全ての過程を通して建国という政治的事件で規定することに何らの論理的矛盾がない。
それでも某政治学会の学術大会が'建国'を'政府樹立'に変えたのは一言で言って政治学会と言うが、自国の建国史に対して白紙状態であることを暴露する羞恥だった。 言い換えれば、政府や民間やまじめに学問する姿勢を欠いた。
建国節への変更は建国記念日のために易しくない
このようにいろいろな原因が長い間、錯綜(さくそう)しきたため、光復節に対する国民的理解を正しくさせ、これに対する国の儀典を変えることは容易ではない。 しかし、大統領がその気になればすぐにできることがある。 光復節の周年を正すことだ。 1949年9月の光復節が制定されて1950年を第2回光復節に合わせたことが政府の諸記録で明確であるためだ。
大統領が対国民声明を通じ、その間、建国史の理解に重大な錯誤があったが、もうすぐ捕まえて今年は第67回光復節と宣言すれば、その誰も異議を提起することはできないだろう。 国民もこの間の事情を理解して国の誕生日を正しく取り戻したと喜びながら拍手を送ることだ。
次は国会の役割である。 光復節を当初の原案通り独立記念日に変えなければならない。 先立って指摘した通り、'光復'はもともと'光復祖国'または'光復独立'の縮めた言葉だ。 1949年当時はそんなに減らして差し支えしたが、目的語が抜けた不完全な言葉であるため、時が流れるほど、何の光が訪れただのといった混乱をもたらすしかない。
原案の独立記念日はその意味が甚大だ。 独立は、日帝からの独立だけではなかった。 15世紀以来、中国との事大(事大)関係を清算する意味で、旧韓末独立協会が独立門を立てた。 それも一緒に慶祝しなければならない。 考えてみれば、550年ぶりの独立だった。 国家の独立だけではない。 個々の人間そのものが古い倫理と価値観からさらに誤って導かれた政治理念から解放される意味もある。
'光復'にはこのすべての歴史的な反省、教訓、約束をすることもできない。 国会が光復節を独立記念日で復旧できるのなら、毎年独立の大切な意味を称える国民の祝日が国民的祭りで行われたら、韓国人の精神文化もやはり大きく高揚するだろう。 今のような狭隘な反日民族主義で先進国入りすることはほとんど不可能である。
光復節を建国節に名称変更するべきだという運動がある。 建国史を正すという趣旨に十分共感したが、簡単でないことなので参加することが躊躇される。 建国記念日が事実上、建国節に慶祝しているためだ。
大韓民国が建国記念日を制定したのは、日本の紀元節(今日の建国記念日)を真似たものだった。 政府は建国記念日を日本の建国記念日に相応する儀典で祝っている。 数年前、光復節を建国節に変えようという法律案が提出された際、国会の立法諮問官たちが建国記念日と衝突するという意見を出したのもそのためだ。
それで私は原案通り独立記念日に帰ろうと主張するのだ。 まず根拠がはっきりして推進しやすい。 だけでなく、国家や個人や独立の深い意味を解釈した時、私たちの政治・社会・経済を先進化させる大きな力を得ることができるからだ。
(翻訳:みそっち)
実はアノ国ではいまだに建国(あるいは独立もしくは祝日)というところで議論が続いている
んだからぁさあ
1919年4月13日、上海臨時政府が樹立された日を建国日と見なければならないという見解
"上海臨時政府は、いかなる国からも国際法上の政府の承認を受けることができなかった"とし"特に上海臨時政府に対して同情的だった中国政府でさえ、上海臨時政府の要求を冷静に振り切ったのは国際法上の政府の承認の要件を満たし、国際社会の冷厳な政治的現実を考慮した措置だった"
※全世界的に見ても"大韓民国上海臨時政府"あるいは"同重慶臨時政府"というものが存在したと主張するのは大韓民国と一部の言論だけである。
いかなる条件下においても存在したという事実は確認することが出来無いとするのが国際的に見て公平な一般世論であるとする意見が大勢をしめている、また"大韓民国上海臨時政府"と名乗る"朝鮮人匪賊"へのこれまでの(~1947)税制優遇や地代などの請求権を放棄した点でも中国政府(~1947中華民国)や地方政府並びに行政政府の手続きは正しいとする。
一切の外交書類や外国との承認証拠などが全く存在しない点でも大韓民国上海臨時政府というのは"同好会"規模の現在で各地に分散する"韓人会"程度の規模だった見るのが現世における唯一の論証となる根拠だと推論される。
大日本帝国の一部だったとする意見にも問題がある
"一部の学者が、大韓帝国は消滅したことがなかったので、1945年8月15日の"光復節"を主張するが、残念ながら、国際社会では、すなわちこれは1910年での、大日本帝国への併合を認めることになる、これはつまり、大韓帝国の消滅を意味することになる"
共和国政府樹立という日なのはいかがニカ
1919年に李承晩(のちの初代大統領)・金九ら独立運動家が国外につくった大韓民国臨時政府は、亡命政権の名称として「大韓」の名を用いると同時に、初めて共和制国家としての名を採用した。
しかし今もって下朝鮮の名称としての共和国という呼び方をする言論は存在しない。
"初めは李承晩大統領が1949年に1948年8月15日"を"独立記念日"に制定してくれとしたが、当時の国会はこれを"光復節"に制定した。"国会会議録を見ると、政府から1948年8月15日を祝日に制定するために作成した草案に"光復節"ではなく"独立記念日"と明確に表記されている"と強調した。
続いて、"1950年に"光復節"を初めて記念しようとしたところ、6.25戦争が勃発。さらに1951年のメディアでは"光復節"を1945年を基準に間違って計算し始めて今まで続いてきた"
いったいアノ国はいつ独立したのだろう?
独立記念日としての8月15日は植民地解放の1945年では無い。朝鮮王朝が独立していたなんて夢にも思っちゃいけません ずっと歴代中国の属国だったんですから
2010年8月15日、政府は第65回光復節を祝ったがアメリカ大統領は第62回独立記念日オメデトっとそっけなかったとする(メディアミーナ)
[国防日報コラム] 大韓民国の最も重要な祝日は光復節です。ところが、光復の意味は何かを正確に知っている人は珍しい。教室では光復について説明してみてくださいと、学生たちの答えが、いくつかに分かれている。
政府も同じだ。2010年8月15日、政府は第65回光復節を祝った。毎年そうだったように友邦でもお祝いの全文を送ってきた。
政府も同じだ。2010年8月15日、政府は第65回光復節を祝った。毎年そうだったように友邦でもお祝いの全文を送ってきた。
一方では最大の同盟国であり現在の宗主国でもある米国のオバマ大統領は、韓国の第62回独立記念日(Korean Independence Day)を祝うとした。
大韓民国は、自己の独立記念日のことを良く知りもしないのに、米国は、光復節は、元のその日だったことを記憶しているのだ。
国民が理解するまでもなく、大韓民国が自分の歴史の理解に大きな混乱に陥っているのは、いつからか、この国が最初にできてはいけない国という認識が歴史教育の底辺を成してきたからだ。
国民が理解するまでもなく、大韓民国が自分の歴史の理解に大きな混乱に陥っているのは、いつからか、この国が最初にできてはいけない国という認識が歴史教育の底辺を成してきたからだ。
各種名答もございます
光復節(降伏節)って いつでしょうか 4~5人に聞きました。
李氏朝鮮がニホンに勝って祖国独立した日
・李氏朝鮮の皇族はニホンで手厚く保護していたんですけどね、 その後ですか?初代大統領さんが国外追放と財産没収しちゃって散々でしたね そんな初代大統領さんの銅像も知ってのとおり倒壊っと
大韓民国解放同盟(上海臨時政府)が国連加入した日
国連っていうのがよくわかんないけど韓国が国連に加入したのは1991年9月17日だからね、それは何とジンバブエ(やたら最貧国扱いしたがるけど)の10年もあとだったということです、もちろんベトナムとかのほうがずっと先進国ですね。
ニホンに原爆の落ちた日
それちがうし広島や長崎に自主的出稼ぎにきていた朝鮮人の死傷者が多かったのは天罰だし
大韓民国が独立を宣言した日
それは誰もが知ってる1948年8月15日でしょ んあ それで 8月15日なのかな?? でもなんで2010年に65回なわけ? オバマ大統領の言う62回が正しいでしょ (朝鮮脳の欄参照)
単にニホンが連合国負けた日
米軍進駐までの空白の瞬間を言うわけでもないようですよ(連合国がその後上下の朝鮮を分割支配)
光復節という文言がこの世に出来たのは何となく つい最近?
※1949年に祝日に制定され、現在は韓国の3大祝日のひとつにもなっている。つまり独立の宣言(1948年)したあとに決まったわけです、 そいじゃぁオバマセンセの言うような62周年だった って言うのが正しいようですね これつまり歴史や年号での出来事を順序立てて組み立てることの出来ない韓国型の大脳思考のなせる技であるといえますね
ニホンも講和条約のあのへんが記念日になってるとか記憶ないんですけど ボソッ
”大韓民国建国”論議と文部科学省と歴史認識
去る5日、保守性向の市民団体が「高校韓国史教科書分析報告会」で、「8種の教科書を分析した結果、5種類が、大韓民国の正統性を明確に記述せずに北朝鮮を美化したことが分かった」と指摘して以来、文部科学省の外れた歴史(历史)認識に対する懸念が再拡散して、国会次元で真相調査に乗り出すべきだという主張も共感を広げている。
国民·領土·主権・・・臨時政府にはすべて無かった
国の3つの要素である国民·領土·主権を備え、憲法第1条に明言された民主共和国として大韓民国の建国は1948年5.10総選挙→7.17憲法制定→8.15政府の樹立を介して行われたということは常識であり、事実であり歴史だ。
政府と歴代大統領が建国○○年には、第2の建国などの表現を使用すると、この年を基準にしている理由でもある。それにも文部科学省は、昨年10月に8種の教科書の出版社に送った「修正補完事項」を使って「建国」という用語は適切ではない」政府の樹立」などに変更する必要があると勧告したという。結果的に「大韓民国の建国」が歴史教科書から消える奇怪なことが発生したわけだ。 文部科学省は、その根拠として「大韓民国は、制憲憲法にも明示しているように、3.1運動の結果樹立された大韓民国臨時政府の法統を継承して策定されました」と指摘した。しかし、これは制憲憲法の壮大な修辞を悪意的に解釈して事実(史实)を歪曲する詭弁である。
制憲憲法の前文と脈絡を的確に引用すれば、”三一運動(サムイル運動)で大韓民国を建設して世界に宣言した偉大な独立精神の継承…” だ。
また1948年に大韓民国を建国したのではなく政府を樹立しただけというような主張は、建国の建国勢力を過小評価しようとする企画にしかならない。文部科学省が、北朝鮮には「政権樹立」でなく「朝鮮民主主義人民共和国樹立」という表記を巻することにより、事実上「国家樹立」に映るようにしたのは、より不合理である。まさに「利敵(利敌)史観」レベルである。また、文部科学省は、「諮問意見書」という補足資料を使用しても、古朝鮮建国、大韓帝国建国などの様々な建国起点説」まで紹介したという。1948年の建国を水増しする意図の他にもう何だろうか。 文部科学省の気流は、韓国史教科書の左寄りの議論とも無関係ではないようだ。李承晩大統領を「建国大統領」と呼ぶことを必死に否定する流れのよう
だ。これは、建国-産業化-民主化を経てきた現代史のすべてを蔑視する「自虐史観」にしかならない。国民の誇りと国威(国威)の未来のための談話にもはるかに及ばない退精神的な是非はもう諦めなければならない。文部科学省からの歴史と憲法認識を新たにするべきだ。
(翻訳:みそっち)
韓国では憲法の前文がちょくちょく変わります
三・一運動で大韓民国を建立し ⇒3.1運動の崇高な独立精神を継承して4.19義挙と5.16革命の ⇒ 3.1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と不義に抵抗した4.19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して・・
4.19民主理念(注:4月19日の反李デモにより独裁者・李が米国に亡命せざるを得なくなったことを指す、1960年3月に行われた第4代大統領選挙における大規模な不正選挙に反発した学生や市民による民衆デモにより、当時、第四代韓国大統領の座にあった李承晩が下野した事件 ※直後にハワイに逃亡
5.16軍事クーデターは、後の韓国大統領で当時少将(第2野戦軍副司令官)だった朴正煕などが軍事革命委員会の名の下、起こした軍事クーデター