検察、南漢山城の環境毀損の飲食店124ヵ所摘発…36人を起訴
韓国人が考える”リゾート開発”、ところでユネスコ南漢山城って知ってた?
[NEWSミーナ]ユネスコ世界文化遺産である南漢山城周辺で許可されていない施設物を設置するなど、不法営業をし、環境を毀損した飲食店が検察に摘発された。
水原(スウォン)地検・城南(ソンナム)支庁刑事1部(部長検事ユンジュンキ)は今月8月、管轄地方自治体である京畿道広州市と南漢山城周辺の飲食店193ヶ所を対象にグリーンベルト(開発制限区域)不法の形質変更、河川区域無断占用など違法行為の取り締まりを行い、124ヵ所を摘発したと26日明らかにした。
▲観光客向けの違法飲食店のようす
検察は、違法度合いが大きく、取締りの後、付与した原状回復期間に特別の措置を取らないA(41)氏など事業主2人を河川法違反の疑いで拘束起訴し、15人を在宅起訴、19人を略式起訴した。
原状回復した残りの89社のオーナーたちは立件しなかった。
拘束起訴されたA氏は昨年6月、光州(クァンジュ)市中部面オムミ里の開発制限区域に許可なしに1千200平方メートル規模の駐車場を設置したり国有地の河川区域217㎡にコンクリートを覆って最近まで営業場として無断使用した疑いを受けている。
B(61)さんは、近くの開発制限区域から昨年3月から許可を受けないまま3千600平方メートル規模のキャンプ場や駐車場を設置して営業を継続して拘束起訴された。
在宅起訴された業者たちも一般飲食店の届出をしないで営業をしたり、無断で飲食店を拡張するなどの違法行為を犯した。
検察関係者は"摘発された業者たちは観光客の最盛期に一時的な営業を行い、その後、復旧を繰り返すなどの手口で、取締りを避けてきた"、"管轄の自治体と常時取り締まりに乗り出し、環境侵害行為が根絶されるようにする"と明らかにした。
(翻訳:みそっち)
▲韓国型リゾート開発のようす
この南漢山城は首都に近く、防御するにはいいポイントのために文禄・慶長の役のあと急遽築城されたが、実際にはその目的を達成できず、今に至るようになる。南漢山城は築城当時の護国仏教思想の影響を受け丙子胡乱(ニホンでは3代将軍家光の頃)という敗戦の記録を持っているが、その後、清への敵意と民族の痛恨のミスの痛みが立ちこめている場所で人々に記憶される。光復後1985年まで陸軍刑務所が設置されていたこともあるが現在では移転したため当時の痕跡は残っていない。明亡き後の清の時代になり些細な戦で無条件降伏をした丙子胡乱(1636)の時に朝鮮王16代目の仁祖が漢陽の都を捨て清軍を避けて南漢山城に避難したという事実の記録が残っている。現在は国立公園化され各種の宮殿風建築物も建てられたため歴史的価値があると思い込んでいる韓国人も多いが、例えて言うならば”コンクリート製の大阪城が世界遺産になるようなもの”との見方ができる。また山城としての歴史的価値も武田勝頼の時代にあった”新府城”程度のものである南漢山城は、当時の漢陽(いまのソウル)の南を守る山城として考えられている。南漢山城はその名のとおり漢江の南岸にありソウル中心部から南に約24キロ離れたところにある。現在残る宮殿風の建物などの遺構が再現されたのは1960年代になってからであり清の時代にはほとんどが破壊され尽くした廃城である。”王宮に関連した施設を備えたし、丙子胡乱時は王が日常的に居住した‘非常王宮’という点が高く評価されたと見られる”、というのは全くの思い込みから始まる内容であり、”臆病な王が40日ほど逃げ込んだ山の上の砦”としての歴史的価値があるに過ぎない。また山城の遺構としてではなく”近世まで残った高地性集落”がめずらしいために文化遺産として登録されることになったものである。(城域跡は耕作地であり朝鮮時代末期には2000人程度が住んでいた)三田渡の盟約にある、城郭の増築や修理については、清国に事前に承諾を得ること。という条文にもあるように清国軍への降伏のあと、南漢山城はそのまま再興されることもなく手付かずで放置され、僅かな施設が朝鮮時代末期の仏教の興隆とともに建てられた。1963年 1月21日、南漢山城の城壁(石垣)が国の史跡第57号に指定されたが現在までに城壁の拡張が行われ”本来あるべき南漢山城らしさ”のために現在でも各種の時代考証が行われている。
南漢山ってさ こんなところ
南漢山っていうのは朝鮮時代の城跡だと誤解されていますが、清との戦争に破れて敗戦国として300年近くのあいだ城壁や城門、宮殿などの修繕をすることが認められなかった朝鮮が放置していたものです。
※ヒデヨシ以前の時代にはすでに城の区域は開墾されて人が住んでいた
最近の韓国の歴史では、歴代の王が増築した壮麗な山城で歴代の王が行幸したとかいう与太話(韓国ドラマ)があったりしますが、これはとんでもない最近の超時空与太モノで、ほとんどの城壁は1970年代に石積みされたものだったり、城門は現在も考証無しで建設中だったりしています。
ということで清が攻めて来た時には仁祖という王が逃げ込みましたが、備蓄してあるハズの食料は横領されていて、食いものに困った仁祖はすぐに降伏の準備をはじめていました。
いえいえ、歴代の王はたしかに南漢城のための予算配分をしたらしいですよ、ところがいよいよ仁祖王が逃げ込んでみたら建設途中のまま100年以上も放置されていたということで、今で言う”防衛装備予算スキャンダル”みたいなものだったようです。
宣祖 ⇒ 光海君 ⇒ 仁祖
まず、籠城に便利な水が豊富という与太話(ニホン版Wikiはあっちの翻訳を貼ったもの)がありますが、仁祖が逃げ込んだ時には肝心な水場がまったく使えず、一緒に逃げ込んだ某将軍など朝鮮政府の高官らが水を求めて逃げ出しています。
王が政治を取る宮殿があったというヨタ話もあるようですが、仁祖王が逃げ込んだ時には莫大な予算を注ぎ込んだにも関わらずなにも完成していない状態で、歴代王の行幸という与太話も近年になって創作されたものでした
つまり南漢山城については、ヒデヨシ以前の時代の資料はほとんど無くて、その後は民衆に放火された宮殿の再建も出来なかった朝鮮王らが”南漢山城”の整備を命じたけど、そのお金と資材は横領されていて、城の空想進捗状況だけ聞かされていた仁祖が清との戦争で籠城しようと逃げ込んだら城門もない有様で水場もダメ、食料も無しということで降伏を決意した場所、というのが真実です。
これじゃあんまりにもカッコ悪いのでヒデヨシ時代の柳成龍という大臣が罷免された後に書き始めた記録(これに李舜臣将軍が出てくる)で宣祖王が南漢山城の修復を命じたとか>>>記録が書き足されたりしています(その時点でも役立たずの廃城だけどね)
※柳成龍というのは宣祖が平壌に逃げた時に一緒に逃げた人、『敵兵の半分が朝鮮民衆だというのは本当か?』という時に、『民衆が離反しております』と言った人
南漢山城(建設予定地)に逃げ込んだ仁祖王が兵隊にも逃げられ水も食料もないまま山の上で降伏を決意したあたりが、あまりにも恥ずかしかったので王が行幸したり、たまに政治をするところとして宮殿が作られたとかいったウソがいつのまにか朝鮮の歴史書のようになってしまったというわけです。
戦乱が起こると真っ先に逃げ回るのは朝鮮の王の特徴ですが、実は敵情を正しく知らされなかったという部分もあります。ヒデヨシ軍が鴨緑江まで攻め込んだのに朝鮮の王朝実録の記録では宣祖王は平壌あたりまでしか逃げていなかったりするという不思議な時空の歪みさえも見ることができます。 また、それに付き従う将軍らも次々と逃げ出していて柳成龍などは宣祖とはぐれたあと免職となり著述業に転じたりしていました。