あの”人面紋軒丸瓦(のきまるがわら)”が宝物になる
'新羅の微笑み'として有名な慶州人面紋軒丸瓦が宝物となる。
瓦としては初めて 文化財庁、軒丸瓦・掛仏もなど6件宝物指定予告
[ソウルミーナ] 韓国文化財庁は2日、慶州(キョンジュ)人面紋軒丸瓦など6点を宝物に指定予告した。瓦が単独で宝物に指定されるのは今回が初めてだというのが文化財庁の主張だ。
国立慶州博物館に保管された慶州人面紋軒丸瓦は、日帝強占期の慶州霊廟寺跡、(史跡第15号)で出土したものと伝えられた。
軒丸瓦は屋根瓦を完成するために使用された丸い形のものだ。
1934年、日本人医師の田中ドシノブ(田中敏信)が慶州(キョンサンブクド・ギョンジュ)の骨董の店でこの軒丸瓦(のきまるがわら)を買い入れ、日本へ渡ったが、パクイルフン元国立慶州博物館長の粘り強い努力で、1972年10月、帰ってきた。
左下段の一部がなくなったが、善良な眼下に少し含んだ微笑の表情が美しい。
文化財庁は"今まで唯一知られるようになった三国時代の人面紋軒丸瓦であり、高い芸術的境地を見せてくれるこの作品は新羅の優秀な堂技術が集約された代表作と言える"と説明した。
(ソウル/みそっち)
1932年、慶尚北道慶州亭洞墓地の敷地で、独特な瓦片一点が発見された。 骨董商らの関心がこの瓦片に集まった。 その後、慶州市内のニホン人骨董商栗原に渡された。 その時、慶州(キョンジュ)の山口医院で公衆医として働いていた田中ドシノブはこのニュースを聞いた。 新羅の瓦片は蓮の花模様が施された場合がほとんどなのに、女性の顔が描かれているなんて。 27歳の青年田中は直ちに骨董の店に駆けつけた。 んで躊躇なく100ウォンを払って購入した。
2年後に学術誌と朝鮮総督府の機関紙などにこの欠片が紹介された。 '女の笑う顔を彫刻した灰白色の瓦…新羅瓦の中でもまだ見られない希少で繊細な文様が特に異色' という内容だった。 それが人面紋軒丸瓦(7世紀ごろ)だった。 今、私たちが'新羅の微笑み'と呼ぶその欠片。
1940年、田中は日本に帰国した。 人面紋軒丸瓦も一緒に持っていった。 一つしかない、素敵な軒丸瓦が、故郷の地を去ったのだ。
以来、人々の記憶から忘れられた。 1964年、この堂を記憶して出した人がいた。 パクイルフン国立博物館、慶州(キョンジュ)分館長だった。
彼は朝鮮総督府の機関紙にこの欠片を紹介していた大阪金太郎と手紙をやり取りしながら欠片の所在を訪れた。
長年のうわさを頼りに田中が日本北九州で病院を運営しており、人面紋軒丸瓦をそのまま持っているという事実を突き止めた。
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パクイルフンは田中に手紙を送り、人面紋軒丸瓦を寄贈してほしいと強くお願いした。あきれ果てるほどの嫌がらせに、ついに田中の心が動いた。 1972年10月田中は直接国立慶州博物館を訪れ、欠片を寄贈することにした。
この人面紋軒丸瓦は見るほど面妖だ。 杏仁のような涼しい目元、やや大きめの鼻、はにかむように透き通るように微笑する口…。その微笑みは照れくさそうなようでもこっそり官能的だ。 軒丸瓦は木造建築の屋根のキワッゴルの末に使っていた締め切り瓦だ。
一度想像して見てください。 建物の屋根の軒にずっと帰り、女性の微笑みで装飾をしたなんて。 ロマンが破格ではないことはできない。
1930年代の千年古都・慶州(キョンジュ)で私たちはそんなに新羅女性の笑みを会った。 日本人医師の田中が、当時の勤務した慶州(キョンジュ)の山口医院の建物は、今もそのまま残っている。
慶州警察署の向かい側に位置した花朗修練院がその建物だ。 ここのどこかに人面紋軒丸瓦と田中の痕跡を残しておくべきではないだろうか。
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いえいえ人面瓦といえばこちらが有名なんです。
何が入っているのかというとクルミやブルーベリーの餡がみっしり
1930年代といえば朝鮮宝物の偽物が量産された時代でもあります。ニホン人向けのお土産としていろいろ作られたんですね