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国家が作った児童更生施設 何か悪いか?

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教化院が収容実績のために浮浪児狩り

浮浪児の烙印を押して隔離… '国家が作った児童更生施設' 仙甘学院
場所は京畿道安山市檀園区仙甘洞の島 いまは陸続きの観光地


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[ソウルミーナ]みすぼらしい身なりをした子供ら数千人を浮浪児とレッテルを貼り、集団収容した後に、強制労働と暴力を振るった島があります。 仙甘學園は京畿道安山市檀園区仙甘洞の島である仙甘島に位置した浮浪者少年収容所でした。

日帝強占期当時、少年たちを教化させるという目的で京畿道安山市仙甘島に設立したこの場所は解放後、韓国政府に移譲されました。浮浪児収容施設に活用するという名目だったが実際は異なりました。

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浮浪者じゃないにもかかわらず、公務員たちが取り締まりの実績を図るため、正常な家庭の子供たちを拉致して送るとかすると、収容された児童は塩田、農業、畜産などの強制労働にも追い込まれました。

さらに、常習的な殴打と深刻な飢えに苦しまなければならなかったです。


[大韓ニュース(1961年6月)] "700人余りの通りの天使たちを救って不憫な彼らに新しい人生の基盤を築いてくれているが…" 

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日帝強占期末期の1941年10月、朝鮮総督部の指示によって建てられ、1942年4月に初めて200人の孤児少年が収容され、その後、大韓民国の第5共和国初期の1982年まで40年間運営されました。

少なくとも13歳以上もの子供たちが対象だったが、実績を満たそうとする公務員と警察は10歳にもならない子供まで島までお送りしました。 

汚い服を着ていたというのが引かれてきた理由でした。 (そいじゃ全部だ)


(ソウル/みそっち)



朝鮮に浮浪児が多かったわけ

1946.11.19東亜(トンア)日報2面の社会記事(ニュース)
孤兒家 仙甘學院(仙甘学院)まず五十名を收容
京畿道の保健厚生局では、ソウル市と司法部の協力を得てソウル市内や仁川市内で彷徨する孤児らの中でこれから国家の人材で陽性なる...

っとまぁ、ニホン統治末期の朝鮮半島は空襲も無く徴兵による男子不足も無いままニホン軍を志願する若者で満ちあふれていたわけですが、朝鮮半島は一貫して浮浪児は非常に多かったようです。

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朝鮮半島では義務教育法の施行による小学校と教育というのが嫌で逃げ出す子どもが大勢いたことは良く知られていますが、元来朝鮮人は子どもを保護するとか養育するといった概念がきわめて希薄でした。

年を取れば山に老いた母を背負って捨てに行くという高麗葬が語り継がれているように、親子のあいだの感情というものもニホン人から見ると理解されづらい、あるいは理解しがたいものでした。
家族という最小の生活単位も朝鮮ではかなりいい加減で、家族がひとまとまりになって狭い韓屋で暮らしていたとも誤解されがちですが、じつは男女のペアが長く一緒に暮らすという習慣すらありませんでした。

家を継ぐ長男以外は家を出るしかない社会環境でありながら、家を出ても何か仕事があるわけじゃ無いという現実があって、そいじゃぁ家を追い出されたような誰にでも出来ることといえば 背負い商人過去カキコしかないというようなことなのです。

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背負い商人
負褓商ともいう。朝鮮で各地の市場を巡回する行商人をさす。おもに金属器,冠,笠,筆墨などやや高価な雑貨を取扱う褓商と、木器,土器,草むしろなどやや安価な日用雑貨を取扱う負商の総称。その発生については諸説あるが,新羅統一期前後と考えられ,朝鮮王朝 (李朝) 時代に政府の公認を受け,組合をつくり,固い規律のもとに活発な商業活動を展開した。
彼らは平時は商業に従事し,有事には運糧,偵察,通信などの軍務に献身した。朝鮮王朝末期にいたり政治団体に動員されることもあり,光武2 (1898) 年には守旧派の皇国協会の行動隊として独立協会を襲撃し,その後は共進会と称し尊王改革を標榜,あるいは一進会と呼応して日韓合邦論を主張したりもした。

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李氏王朝五百年間、魚、塩、水鉄、土器、木物、麺子等の百貨を独占専実したる坐買行商した褓負商、京郷三千の市場と問屋を管理した左社と右社、そして慶弔相助の約束を実践し、強盗土匪の荒掠を防衛し、行路に悩む病人、国難に赴く義勇軍、これ五百年間褓負団の姿であった
恰も近代的青年団と称する若者が異様な風采にて肩を立てつつ歩くが如く昔の褓負商民は頭に綿花をつけたる尖角の冠—平涼子を彼むり、手には勿尾杖を帯び、元気よく洞里の巷や都邑の辻々に横行闊歩して居った
この団は今より二十五年前(1910年頃)にその形貌を廃せられ、その団体の特権と存在まで禁止された、爾来二十有余年、彼等の頭目や重なる残徒は、王朝五百年の長かりし彼等の歴史を振りかえり見て幾多の手を改め品を換えて其改造と存在の認許をその筋へ陳情したが、当局は遂に之を許容しなかった、否な之が改造の研究すらも専念しなかった



商業施設の皆無だった朝鮮500年にも背負い商人は品物を背負って歩けるところならどこまでも歩いていきました。そういう生活ですから背負い商人は家族を持つなんてことが無かったのです。(背負い商人の元締めはいた)
※朝鮮の背負い商人には定住する習慣が無かったから土地や建物への執着も希薄で、現在の韓国には借家住まいが非常に多い、その一方でお金が貯まると貸し家業で生計を立てることが念願だったりする。

そんな背負い商人の普段のお泊りは野宿ばかりでなく現在では”居酒屋”と訳されることの多い”酒房” というところに寝泊まりしていましたが、そういうところにはやはり不要になった女子が多く居たようで、朝鮮版の飯盛り女とでもいうべきでしょうか。男女が揃えばやがて何かが生まれてくるのが仕方ないところで、「雪の降る頃には帰ってくるニダ」「きっと戻ってくるから」なんてことを言っていたかもしれません。そういう事情もあってその父親が誰なのかなんてことにかまってられないわけで、そうした環境で生まれ落ちればその子も浮浪者になるというみちしかなかったのです。(それでも背負い商の元締めが募集してたりする)
そうならないように男女を隔離していたことにしたいのが朝鮮社会の儒教研究でした。

つまり親が誰だとかいうのは多くの朝鮮人にはどーでもイイことだったのです。
そういうのがどこかに定住してみればやっぱりいずれは背負われて捨てられるということの繰り返しってことですから。そんな国を近代化しようとか定住化させようという総督府政府の苦労は大変だったことでしょう。


教化院が浮浪者収容施設に?
とにかく町にあふれる浮浪者ったらロクなことをしませんからまとめて面倒を見てやろうと、着る物を与え住むところを建ててやり食べるものを税金から出す。しかも勉強まで教えてやったということを覚えていれば感謝しない朝鮮人の方がおかしいと思うのはニホン人ばかりではありませんが、現在の韓国人には浮浪者の生活を肯定したい本能があるせいでしょうか、教化院っていうのがまるで犯罪者の濡れ衣を着せて強制隔離して強制労働させたかのように言い出したりするっていうのも韓国人が最近になって少しは豊かになった証拠と見るべきかもしれません。

ちなみに、韓国や韓国人が今でも奴隷労働や奴隷的待遇を好むのはそういう文化が長かったせいであって、それらを否定してきた日帝統治の35年間だけでは朝鮮人を教化できなかったという意味でもあります。


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