今日の楽韓さんのところを見ていて補足したくなったこと
きれいではない 西独派遣看護師は35歳
韓国の看護師のドイツ派遣史が始まった1966年1月、小さな騒動が起こった。ある新聞の報道によると「保健社会部(省に相当。保社部)が最初の派独看護師に選んだ128人のうち8人が、『顔がきれいではない』という理由により土壇場で出国保留になったため、該当者が当局に陳情して無念を訴えた」というものだ(京郷新聞1966年1月14日付)。
こちらですね、NEVERのニュースライブラリーですぐ見つかりました
1966年1月14日京郷新聞3面
きれいではない出国保留
西独派遣看護員中8名が陳情
1966年1月14日京郷新聞3面
保健社会部は 、西ドイツ ”マインツ"、”フランク” 病院に送る看護員128人を正式発表したのに、顔がきれいでないという理由で合格者のうち8人が出国保留されていて陳情書が出る騒ぎが起こるなど問題となっている。
保健社会部は、昨年12月西ドイツの "マインツ、フランク" 両病院の要請を受けて2次にわたって選抜試験実施し、当初、看護員を斡旋し128人を選んだが、看護員派遣計画を斡旋した西ドイツ マインツ病院小児科 李修吉博士が、キム某(35)ちゃんなど8人は "顔がきれいじゃない" という理由で 保健社会部合格決定を認められないと構えていて、問題となっている。
これに対して 保健社会部実務者は "これは李修吉博士の個人によるであることであり、 保健福祉部では脱落した8人の出国を継続推進する"と話した
まるで『 個人の感想であり効果・効能を示すものではありません』みたいなことになってますね。(イイノカ)
▲同じ日の4面、テレビ局は2つしかない
▲何度目かの西独行きのようす
最初の西独派遣看護師が幾多の審査を受けて選抜され128人に絞られたのには大きな理由がある。当時、韓国~西独を20時間で結ぶ便が無く、JAL(日本航空)のチャーター機DC-8を利用することにしたが、その機体の定員が128人だったからである。
到着したのは西ドイツのボン(1990年まで西ドイツの暫定首都みたいなものだった)
当時の記録を見てみると派独看護師は、1966年から1976年までの総11,057人派遣され、給料で平均約800マルク(当時韓国ウォンの価値は約16万ウォン)を受けた
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李修吉博士っていうのが仲介役なんですね、このひとスパイ容疑でその年にソウルに圧送されてみたりしていました。スパイ事件とかの多かった頃みたいですね。
あの5100ポイントなんて
鬼ころにしとけばよかった。