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100年前の朝鮮人が考えた"民族改造論"

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もういちど朝鮮人に読ませたい

100年前の朝鮮人が考えた”民族改造論”

島山安昌浩の'民族改造論'が李光洙のそれと一致すると?
[書評]李光洙(1974(1922)、大成(テソン)文化史(開闢))


イメージ 1[ちゃんねるミーナ]嘘つきとは'行動と言葉'が異なったり、'前と話'が違う人だ。 うそつきが与える最も大きな害悪(最悪)は、うそが真実の代わりをするということで、次の悪は真と偽を混乱させるということだ。
オオカミに乱暴された羊飼いの少年を思い浮かべば良い。

李光洙(イ・グァンス)の<民族改造論>が'最悪'という人もいて'次悪'という人もいる。 たまに'最善'ではないが、仕方がなかった'次善'だったという人までいる。

イメージ 5李光洙(イ・グァンス)が 1922年 『開闢』に発表した論説文で, 民族性の改造(改造)を力説した文だ.。20年代中盤になり国内の民族運動が民族主義陣営と社会主義陣営で大きく両分されて一種の対立意識を形成し始めるのに, この文はまさに彼の初入段階に発表されて多くの論難を呼び起こした. 李光洙の民族観をうかがうようにする文だ。朝鮮戦争開戦時にキタ朝鮮に連れ去られ10月に平壌で死ぬ。


イメージ 2

▲1922年<東光>に発表された"民族改造論"の序文、李光洙島山安昌浩の民族改造思想が"私のものと一致"だと主張した。
韓国版Wikiではニホン統治により堕落した民族性を正すと書かれているが、実際にはニホン統治以前の旧来の朝鮮時代までの道徳性の無さや堕落について延々と書かれている。

 '善-悪'論争では'悪'を挙げる人が圧倒的だが、'最と次'論争では優劣を判断が難しく、論争が進行中で、その判断は容易ではない見通しだ。

イメージ 4しかし、'善-悪'と'最と次'論争を離れ、誰もが同意できるものがある。 民族改造論は安昌浩先生の思想であり、李光洙はそれを代筆して国内に紹介した人という点だ。
李光洙(イ・グァンス)、自ら序文で"民族改造の思想と計画は在外同胞のうちで発生したものとして・・・私は朝鮮内でこの思想を初めて伝えたことを無償の栄光"と聞いていると書いた。 李光洙(イ・グァンス)が言った"在外同胞"と"偉大な頭脳"が島山であることを疑う人はない。

安昌浩(号は島山、1878年 11月9日〜1938年 3月10日 )は、大韓帝国の改革、啓蒙活動家であり、日本植民地時代の独立運動家、教育者、政治家である。
じつはこのひとが”民族改造論”を考えた張本人だった
※最近では野球選手にも似たような名前のがいる

したがって、李光洙(イ・グァンス)が<民族改造論>を使ったのはプラトンがソクラテスの思想を<かいわ>にまとめて、ヨハネとペトロがイエスの福音を<ヨハネ福音書>と<サンピエトロ、あとがき>に記録して、ジュンサムと他の弟子たちが孔子の教えを<論語>で編集したのと似ている。
しかし、似たようなことは外見だけだ。 プラトンはソクラテスの毒杯を飲んだ後にも彼を裏切ったことがない。 ヨハネとペトロはイエスが十字架刑に処刑された後も、福音を守って伝えている途中流され殉教した。 孔子の弟子たちも列国周遊時代はもちろん、孔子の死後も師匠を辱めたことがない。 しかし、李光洙は安昌浩が死去する前に変節して親日、賦役に乗り出した。
安昌浩と李光洙はソクラテスプラトンではなくメレトスであり、孔子子路ではなくて冉有であり、イエスペトロではなく、イスカリオテのユダなわけだ。 メレトスはソクラテスの死後、遅れて後悔したアテネ市民によって処刑された。 冉有は師の教えに配置される政治を展開したが、破門された。 ユダは良心の呵責に自殺した。

しかし、李光洙は良心の呵責を受けておらず、文壇から破門されたこともないし、反民族行為者特別法で処刑されることもなかった。 朝鮮人女性の恋人だった文人であり、上海臨時政府の独立運動家だった李光洙は天皇の尊い意思を尊重し、大東亜共栄圏の旗手の役割をして共産主義下で病気で亡くなった。

ユダが書いたイエスの福音書が発見されたと仮定してみよう。 反応はどうだろうか?
1945年<トマスの福音書>が発見されたが、一番前にイエスの弟子"ディドゥモユダトマスの記録"という言葉があり、いずれも114個の一節のうち約40個以上が他の福音書と重なる内容だ。 それでも聖書に認められなかった。 ましてや裏切り者だったユダの福音書はイエスの教えとして受け止められるだろうか?
それでも<民族改造論>は安昌浩の思想とし、読まれている。 なぜだろうか。 不幸にも李光洙(イ・グァンス)の本じゃなくてはこれといった体系的に島山の改造思想の紹介書がなかったためだ。 不幸だ。

<民族改造論>に島山の声が入っているのは事実だ。 しかし、どんなものが島山の本当の姿で、どれだけが李光洙の改悪か見分けるのは容易ではない。 さらに、李光洙の変節は<民族改造論>出版される前に開始されたというのが定説であることを考えれば、李光洙の島山改悪は非常に巧妙つつも、根本的なものであることが多いだろう。

<民族改造論>を読んで、島山対李光洙(イ・グァンス)の割合が90対10くらいになりそうだ。 恣意的な数ではあるが、例えば、そうだということだ。 ところが、その10%が問題だ。 10パーセントだけでも李光洙は島山を完全に間違った思想家と作ってしまうことができるだけに、文才が良かった人だからだ。
歪曲された島山や歪んだ民族改造論を正すには、李光洙(イ・グァンス)の10パーセントを見つけなければならない。 '島山に学んだ李光洙'から'島山を口実にした李グァンス'を区別することができなければならない。 それが簡単な作業ではない。 そんなごたまぜは非常に巧妙て顔色チェキさえ難しい。
※21世紀の韓国では彼らの考えが正しかったとか間違っているとかうるさい

<民族改造論>の序文である'ビョンオン(弁言)'からそのような巧妙な責任逃れの例を見つけることができる。

"ビョンオン(弁言):....
この文の内容である民族改造の思想と計画は在外同胞のうちで発生したものとして私のものと一致し、ついにおれの一生の目的を実現するようになったのでございます。 私は朝鮮内でこの思想を初めて伝えたことを無償の光栄だと知り、この貴重な思想を線刻した偉大な頭脳と共鳴した諸先輩同志にこの機会にもう一度尊敬と感謝を申し上げます。 ....
辛酉十一月十一日、太平洋会議が開かれる日に春園。"
※春園は李光洙(イ・グァンス)の雅号

同序文によると、民族改造の思想と計画は、在外同胞(島山)のものであり、李光洙は礼儀正しくも"この貴重な思想を線刻した偉大な頭脳"に尊敬と感謝をしている。 自分は"朝鮮内でこの思想を初めて伝えたこと"だけでも無償の栄光と考えるとまで言った。 そこまではとても良かった。
問題は李光洙(イ・グァンス)が同序文に島山の思想が"私のものと一致"だという句を入れたという点だ。 巧妙な責任逃れだ。 大抵は目も気づかなかっただろう。 万一彼がよく告白したように、李光洙(イ・グァンス)が島山を師匠と知っていて、彼の教えと人格に、本当に感激した人なら、"私のものと一致し、"代わりに"私は深い感銘を受けて"と書いたのだ。

イエスの弟子ピエトロはそうした。 彼の文章には"イエスさまがおっしゃるには..."だらけだ。 ソクラテスの弟子プラトンや孔子の弟子ジュンサムもそうだった。 一列にあげず"ソクラテスが問うことを..."あるいは"孔子が曰く..."が出ている。

この弟子たちは師を現して自分を隠した。 それ師匠の教えを伝えられる弟子の正しい態度だ。
しかし、李光洙は違う。 信じたり、しまったり、自分も師匠と全く同じ考えをすでに別にしたということだ。 盗作問題に巻き込まれた大衆歌手たちが"たまたまになった"と言い張るものと変わらない。 島山の言葉だと明らかなことも李光洙は、自分のことであるように一緒に書いた。 それがまさに"私のものと一致"だという序文の一節の効果だ。 この巧妙な文句で<民族改造論>の著作権は李光洙のものとなって、'民族改造論'という思想の主人が島山か李光洙(イ・グァンス)なのか曖昧になってしまったのだ。

彼は怠惰で怠け者、無気力なこの民族の性格を改造しなければならないと主張した。 怠惰で無気力で、弱気ながら、無料でを希望しており、荒唐無稽だ、要領と権謀術数にたけている、そしてトリックと目の選り分けに長けているというのが彼の持論だった。 このような習性ではお互い間の信頼も難しいが、国際社会の信頼を得ることはさらに難しいとした。
また一部国民の意志だけで独立が達成されるのはなく、国際社会の信頼を得ずにはどの国も朝鮮の独立を助けてくれることはないと主張した。
彼によれば朝鮮社会は要領と欺瞞、虚偽が幅を利かせる社会であり、このような社会、このような市民意識的には百年が過ぎても、独立を達成することができないと主張した。

"私のものと一致"したという李光洙(イ・グァンス)の話が事実ではないことは明らかだ。 この序文を書いた辛酉(1921)年に李光洙は29歳だったが、その時まで'真と力、'あるいはムシルヨクヘンや人と社会の改造のための同盟の修練に対する他の文章を書いてみたことがない。 せいぜい'教育が重要である'は程度の小説<無情(1917)>を使って有名になっただけだ。
一方、当時の43歳だった島山安昌浩はすでに'人の改造能力'と'ムシルヨクヘン'と'定義ドンス'について無数に演説し、これを実践する同盟修練団体で青年学友会(1909)と興士団(1913)を組織したことがある。 李光洙(イ・グァンス)が興士団約法を外国語高校の長くて複雑な入団問答を経て興士団に加入したのは<民族改造論>の序文を書く1年前の1920年5月だ。 李光洙(イ・グァンス)が島山のような思想を持つようになったのは、それは安昌浩や興士団で習ったためであり、偶然の一致でないという言葉だ。
もし李光洙は日本の検閲を避けるためにわざわざ島山安昌浩の名前を隠したのだろうか? それでもない。 1922年当時は島山安昌浩の名が国内に挙がっていても禁止されなかった。 たとえそれにしても総督部のために働き始めた李光洙としては何が問題だろうか。 島山安昌浩の取り込みに乗り出した総督府は李光洙と島山の関係を知らないこともなかっただけでなく、李光洙の島山安昌浩の希釈をして歓迎しながら、それとなく社主といた。 李光洙(イ・グァンス)が1922年安昌浩の指示で興士団の国内支部である'修養同盟会'を結成する際も、その団体契約法を総督部に通報して許可を受けて進めた。

'李光洙(イ・グァンス)が安昌浩の代筆者'という主張に不慣れさを感じる人もいるはずだ。 しかし、それは事実だ。 国務や雑務、興士団業務に目が回るほど忙しい中、李光洙の文才を大事にしていた安昌浩はよく彼に文書や書類、手紙を代筆させたりした。
<民族改造論>は、おそらく、李光洙(イ・グァンス)が上海に到着した1919年3月から帰国した1921年3月の間に安昌浩の口述を書き取るいう形で草案が捕まったのだ。 安昌浩の几帳面な性格を考えると、李光洙(イ・グァンス)が入団問答を終えた1920年5月以降に自分の改造思想を代筆させた可能性が大きい。 李光洙は草案を持って帰国した後、数ヵ月間の修正と補完を経て1921年11月には序文を書いており、1922年初めには<開闢>に発表したのだ。

イメージ 6李光洙(イ・グァンス)が安昌浩の考えをもらって使って発表したのは<民族改造論>が初めてでも最後でもない。
1919年4月李光洙は上海から安昌浩が口述した百二十ページに達する'朝鮮独立方向'をもらって使って臨時政府の閣議に提出した経緯がある。
1924年にも李光洙は北京で安昌浩と会い、彼の'同胞に告する文'をもらって使って1925年、東亜(トンア)日報に一部を、そして1926年に<東光>に全てを発表していた。 この時の著者は'安昌浩'か安昌浩のニックネームだった'ソムムェ'や'サンオン'だった。

安昌浩の口述をもらって使って李光洙(イ・グァンス)が、自分の名前をつけたのは、<民族改造論>だけだ。

もし、李光洙(イ・グァンス)が安昌浩の思想を私心なく、そして加減なく<民族改造論>に映すと、"私のものと一致"云々していないだけでなく、それを自分の名前で発表していなかっただろう。 たとえ避けられないとしても、解放になって時代がかわったら'改正版の序文'でも書いて、事の顛末を正したのだ。 しかし、李光洙はそのどれもせず、そのため今も、人々は'民族改造論'が李光洙のものであると思っている。 安昌浩を二度殺した仕打ちだ。
李光洙はような序文で民族改造思想を"私の人生の目的を実現するようになったこと"とした。 果たしてそうだろうか? それなら李光洙(イ・グァンス)が<開闢>に<民族改造論>を発表してからちょうど20年後の1941年総督府の機関紙毎日新報>に実は"半島民衆の愛国運動"という文章の一部を見てみよう。

"この生活の革新は生活の皇民化、生活の合理化、そして生活のイムチョン化(臨戰化)の3大綱領によってしなければならないだろう。 生活の皇民化というのは思想、感情、風習、習慣中に非日本的なことを除去して日本的なものを代入純化することだ。 隷下面混床儀礼の日本化、家族・親戚観念の日本化、敬神崇祖天皇中心の生活の新建設である。"(毎日新報}、1941.9.3)

これが安昌浩の思想と一致するだけでなく、"一生の目的"といわれていた自分の'民族改造論'の目的であり方法論だったんだろうか?
一方、李光洙(イ・グァンス)が"私のものと一致"ないと主張していたの民族改造論が彼の人生でどうやって分かったのか見てみよう。 安昌浩が傷害で逮捕され、仁川を通じてソウルに押送された後40日間の過酷な取調べを終えた後、日本人検事が尋問した。 "あなたはこれでも独立運動を続けるつもりなのか?"

次は全ての安昌浩伝記に欠かさず登場する安昌浩の答えだ。

"私は食べても、わが国の独立のために、寝ても我が国の独立に向けて寝た。 これは私の命がなくなるまで変わりがないだろう。"(イムジュンビン、<安昌浩:その生涯と精神>、301ページ;主要な、<島山裏窓好転>、312ページ;興士団、<島山・安昌浩(アン・チャンホ)>、106ページ。張利郁、<島山・安昌浩(アン・チャンホ)>、384ページ)。

嘘つきは"これ話、"あるいは"行動と言葉"が他の人と話した。 うそつきの'最悪'は人が信じてくれないことであり、'次悪'は本当か嘘かわからなくなることだと答えた。 私はどうして一部の人々が李光洙(イ・グァンス)の<民族改造論>を見て'次悪'だから'次善'だからするのか分からない。 序文読むだけでも、そのまま'最悪'だけど....


(翻訳:みそっち)



長々と長いんですがニホン統治時代に上海のほうで李承晩とやってた仲間に安昌浩(アンチャンホ)ってひとがいて、いい身分の出身じゃなかったのでちょっと違う路線で朝鮮独立をしようとしていたんですね。
そのひとが李光洙(イ・グァンス)ってひとに目をかけていたわけです、安昌浩(アンチャンホ)は1938年に病死しますが、李光洙(イ・グァンス)のほうは小説家、論説家としてニホン統治時代に”皇民化”をすすめる文章を書いたわけです。
今時の韓国では”皇民化”なんていうと親日派でとんでもないことになるのですがこのひとも1950年のうちに死んじゃったので評価が難しいんですよ。

文中では朝鮮人の嘘をつく体質や偽りを報告する習慣などを無くし、近代化に必要な条件としてはすべてニホン式に改めることで欧米の文化を取り入れ独立が出来るという内容が書かれているんです。

そして今の韓国人に不足していることがそのまま書かれているんです
民族意識改造の8つの要点
第一は嘘と欺く行実がないように改造しなければならない。
第二には空想と公論を捨てて正しいと考えられることは '義務'と甘受し直ちに行わなければならない。
三番目は '表裏不同'することがなしに義理を守らなければならない。
四番目は '怯懦を捨てて正しい事と決心した事ならば万私はを冒して出かける者'になりなさいと言った。
五番目は社会的公共意識と奉仕精神の涵養を強調した。
六番目は 1人1機の専門技術習得を持つようにしなければならない。
七番目は勤倹節約精神の涵養だ。
八番目は生活環境の清潔だった。

ニホン政府としてもロシアの脅威が減った時点で、民度が低くお金がかかるばかりの朝鮮が独立してくれるならやってくれ、みたいな考えはあったと思いますよ
(併合してるじゃん?)
たとえばこのあいだの戦争でアメリカに負けなかったらばニホンだってイギリスみたいな国境を接した国にサッカー代表が2個必要になったり、アイドル歌手を男爵にしてみたりするような厄介な国になっていたかもしれないじゃないですか


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そう言うわけで来週は”民族改造論”が特集ですよ



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