考試院の誕生と進化
考試空間の変遷史
[ソウルミーナ] 国土交通部によると、2015年8月基準、大韓民国に竣工された考試院の棟数は1,136棟で前年度の268棟より4倍以上急増した。
※現在の棟数ではない、この1ヶ月に人口5000万人の韓国全体で建設許可の出た棟数である。
その中でも61.8%の703棟はソウルで新しく建て替えられた。 また、ソウル市が2015年2月に公開した結果によると、ソウルの住居貧困の若年層(満19歳~34歳)は52万3,869人で、全体青年のうち22.9%を占めているが、殆どの居住空間は考試院に集中されている。
継続的に続く貸し住宅不足とこれによる賃貸料上昇はこれをさらにあおった。 考試院も今では受験生よりも1人世帯の避難先に変わり、束縛のようにかけられた '考試' という単語のイメージを最大限希釈しようと努力中だが、依然として考試院という言葉が通用され、簡単に理解される。
それなら受験生たちは皆どこに行って住居貧困層がこれらの代わりにしたのだろうか。 誕生以来、着実に進化を繰り返した考試院の変遷を通じてその疑問を暴いてみよう。
考試院の誕生
考試院の原型が最初に登場した時期は1970年初期と推定される。 ソウル近郊、古びたビニールハウスや村の田舎の家に学校を卒業した学生たちが法曹の勉強のために1人2人集まり始めた。 当時は合格者が50-60人にしかならないほど、国家から選ぶ人数が少なかったが、考試院が誕生する可能性もある背景には十分だった。
学生たちはたいてい下宿の形で生活したが、普通の無許可で建てられた日付型建物に部屋が並ぶ形だった。 この時にはまだ、考試院という単語は普遍的でなかったし家の特徴を他の名前で言うなら、例えば、一軒家、石垣の家、小川を渡ると家などと呼ばれた。
ここに韓国人を集めておけば、間違いなく発生する序列問題がここにもあった。 例えば、最も長くいた人が良い部屋を得るようだった。
※考試院とは勉強する空間であり試験に及第すればそこから出て行くわけだが、試験に及第できずにその場所を終生の棲家と決めた者も多い
(左)昔の下宿屋でご飯を食べる姿、(右)'豚小屋'と呼ばれた初期、無許可の下宿屋
このような状況の中で合格点が60点以上の絶対点数制テストが法曹系人材の拡大を図るため、1970年5月、定員制に変更された。 相対的に低くなった難易度のおかげで、より多くの人たちが挑戦し始め、これは小さな集まりに過ぎなかったところが大きな集団の規模に拡大されるきっかけになる。
事実当時は山の中の寺に入って一部屋で勉強する公務員試験文化も普遍的だった。 これを'考試寺刹'と呼んだ。 しかし、世俗と断絶されたところではスタディグループを作ったり、情報交流が容易ではないために次第に人たちが集まる考試院で勉強する文化に変わっていく。
考試制度及び試験に関する情報の習得が空間の変化まで続くことになった。1970年後半に入ってからは現在我々が知っている専門的な'考試院'が誕生した。 彼とともに合宿村、試験研究室、図書館、私設の塾など告示の準備が可能な多様な空間も一緒に登場し始めた。
次第に専門化して考試院に
初期の考試院らは一般の2階建ての住宅を改造した場合が多かった。 1階では主人の世帯が住んで上の階には受験生たちが部屋を一つずつ埋め、勉強する方式だった。 そして時間に合わせて降りてきてご飯を食べた。
当時、大半は食事を提供したが、これは今のように飲食店が多くないせいもあるが、従来の下宿で勉強していた生活をそのまま譲り受けたのがもっと大きかった。 受験生たちには唯一の楽しみが食べることであるだけに、食べ物の種類と味によって、考試院の人気が明らかなったこともある。
(上)住宅を利用した考試院の1階平面図、(下)5つの部屋と共用のキッチンがある2階平面図 (外階段式なのは、2階部分を増築したため)
受験生が日増しに増えて、考試院運営を目的に作った専門考試院も出現し始めた。 効率を最優先で追求しているうちに、廊下を置いて両方に部屋が連なる形が普遍化された。
共同で使う化粧室やシャワー室は外部に備えており、通常半地下の空間に管理しているオーナーが起居した。 妨害されず、勉強できるように、より集中できる環境を造成してくれたが、次第に1室が普遍化され、机と本棚は基本的に提供された。
多くなっている生徒たちの需要に合わせて'法学院'という国家試験専門塾も生まれる。 司法考試も次第に大学修学能力のように有名な講師や塾、町のトレンドに影響を受け、有名なところに受験生たちが詰めかけた。 初期に学院たちは鐘路に追い込まれていたが、ソウル大学などの影響で、新林洞(シンリムドン)が有名になるとそこに席を取り始めた。
少しずつ、頑丈に密集し、考試村はその名声をさらに高めた。 新林洞や鷺梁津(ノリャンジン)などがすぐに考試村を思い浮かぶようになったのもその頃からである。
(左)専門の考試院の外部の様子、(右)均等な10つの部屋で構成された2階平面図
※細分化された1.2坪型考試院のようす これをひと月5万ウォンで貸しても10部屋で50万ウォンの収入になるから大人気だ
生存を模索する考試院
過熱されていた考試院のブームは、90年代後半に入ってから下がり始めている。 インターネット講義が発達し、あえてオフライン学習塾に行く必要がなくなっており、お金がもう少し入っても快適で優れた環境で勉強しようとする欲求も拡散された。
また、2007年、ロースクール制度が導入され、考試院に足を入れない人たちもますます多くなった。 もちろん、激しい反対の中に司法試験の廃止が従来の2017年から2020年猶予されたものの、これ以上司法試験だけが法曹界の関係者になる道がないようになったのだ。 また、学生たちが次第に個人主義的な性向が濃くなり、すべてを一緒に使わなければならない従来の考試院空間を避ける現象も現れた。 値段よりも利便性と独立性が優先視されることだ。 それによって部屋に様々な施設が整った'ワンルーム'形の空間が徐々に姿を現した。
考試院としては莫大な生存に対する圧迫が始まったが、そう簡単に消える考試院ではなかった。 変化した人たちの欲求とトレンドを反映した考試院が登場し始めた。 各部屋ごとにトイレが入った類型を作って建物の規模を拡大して耐性も備えた。 また、空気が良くないという認識を払拭させるため、各部屋には陰イオン発生器を設置したり、洗練された雰囲気の中で休息との勉強ができるように、地下にカフェーと同じ空間を作った所もできた。 考試院ではないが、低層階にに塾を誘致し、全ての生活が建物の中でできるようにした所もあった。
最近建てられている大型の考試院の姿
このように考試院の空間が勉強のためところであるだけでなく、日常生活のための場所とも変化し始め、受験生らの空席を一般の人たちが徐々に満たして行き始めた。 イムチャエクがワンルームやオフィステルよりはるかに安いだけでなく管理費や公共料金もなくて気を使う部分がないのも長所だった。
したがって、適当な選択肢がない住居貧困層や一時的に居住空間が必要な人たちには魅力的に来るしかなかった。 考試院は迫った危機をむしろチャンスにして考試村だけでなく、他の地域まで急速に拡張し始め、今はソウルどこでも簡単に訪れることのできるところとなった。
このような一連の流れを通じてソウルに考試院(しかし、これ以上の受験生はないが伝染病のように広がるようになった。 安価な住居空間を必要とした人は多く、その最も簡単な代案が考試院だったのだ。 したがってこれ以上考試院は、特定地域だけの空間がないようになった。 ただソウルのどこに必要な普遍的な住居空間であるわけだ。
しかし、お互いのニーズが一致したとして、すべてが完璧なわけではない。 法規が補完されたりもして関心を持つ人々も増えるのは幸いだが、火災や孤独死、寂しさなど、記事にしばしば登場する考試院の問題はいつも残っている。
特に最小基準に関する規定が厳密ではないことも考えてみるようになる。 考試院は何でも最小限のもののみを揃えた場所なので、どんなものが少しだけ割れになっても住む人には、大きな問題が生じる。
まず、多くの空間の面積が過度に狭い。 高い地価と経済性を無視することはできないが、徐々に生活の空間に考試院が使われている点を考慮するなら、考試院の進化は依然として進行形だ。 英国(30平方メートル)の基準のように豪華な大きさは望めないが、私たちの国は隣国の日本(16平方メートル)より小さい12.28平方メートルに過ぎない。 日本より韓国の平均身長が実に4cmや大きいのに、という言葉だ。
リードした統計のように思ったよりはるかに多くの若者が経由していく空間である考試院。この空間をもう少し関心を持って重要に眺めたらどうだろうか。 その空間的、社会的タイプは維持しても、少しずつ好転するができるように手伝ってくれたら、もっと大きな変化を生み出すことができる。 もしかしたら既に人たちは期待しているのかもしれない。
(翻訳/みそっち)
というわけで韓国人の説明する考試院というものですが、これは語源の成り立ちから作り出したものですね。 もちろんお勉強をするためある空間っていうのは確かですが、1970年代に法曹試験が定員制に変わって一定数が採用されるようになったという下方平準化は公務員試験を受けようとするひとが増えたきっかけではあるようです。
実は話し出すと長くなるのですが、韓国では幾度か住宅の基準が変わっています。
まず、ソウルの旧市街などにありがちな半地下の部屋のついた低層住宅ですが、これは1980年代の建築基準緩和で、「個人所有の家では半地下部屋は総床面積に含まない」という基準ができました。
面積で税金が変わるわけですから新しく作るなら借金しても半地下付きというのが一般化したわけです。(良く水没する)
その後住宅の高層化が進むと現在までつながる高層住宅が普及したわけですが、建設許可が郊外に集中したこともあって交通の便のイイ駅前などにオフィスとして建設し、内部を細分化して貸し出す形式のオフィステル(オフィス+ホテル)という居住空間が作られます。
こちらは、トイレとシャワー、台所を個別に設置しないことで、住宅ではなく、日中だけ使う、貸し事務所(本来は寝泊り不可)として緩い建築基準で設置されたものです。その後再び法改正があり、半地下の部屋と屋上増設部屋の設置審査が厳しくなったりしながら現在では許可されないようになっています。
そのころになると大学進学率が上がり、ソウルへの人口流入が高まると安価な住宅不足から考試院タイプの部屋を棲家にするものが増えて1.6坪タイプの単身者住宅として現在につながるわけです。
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ソウルにはハエがいないと言います、そりゃ消毒車が走り回るわけですからイイんですが、大勢がそこで暮らしてゴミを溜め込むわけですよ。 習性としてそういう文化があるので説明も不要かもしれませんが、出るところには出るそうです。
ここからがたぶんニホンで韓国の”消毒事情”に一番詳しい解説です ソウル 人と食を味わい尽くす? トウキョウでは消毒車をみかけませんね、ソウルではたくさん走っていますよ ゴミだらけの国なのにハエがいないのには理由があるんです 客は酒を飲み、隣と体を寄せ合えば防寒できる。頭が下がるのは、たいていは四十歳以上の女性主人の勤勉さだ。アーケードにある屋台の自称六十歳の女性主人は前よりも太って見えた。「たくさん服を着て、食べるのが一番の寒さ対策なのよ」と冗談めかした。 屋台を出して二十年以上。「息子を育てる家計の足しにと始めたの」と言うが、この年ならとっくに子育ては終わったはずだ。昼から午前零時すぎまで働き通しの屋台が生きがいなのだろう。 数カ月前、韓国中部・大田(テジョン)の駅前で入った屋台では驚くべきことが起きた。一台の車が屋台街に白い霧を噴射しながら通りすぎたのだ。視界ゼロとなり、テーブルの上の砂肝にも降り注いだ。 七十代の女性主人は「消毒薬さ。人体に影響はなんくるないって。平気、平気」。この、おおらかさもつまみになった。韓国の魅力は人と食。雪も消毒薬も降る屋台は両方を味わえるからいい。 ◇ ◇ ◇ まるで食べ残しを出す食堂がワイルドだと言っていたどこかの新聞みたいですね。 毎年くりかえされる"韓国型主張"、後進国並の感染症が毎度の発症、その原因は "衛生状態の向上で免疫が減ったため"? そのむかしはもっとすごかったんだ、最近になっても減らないのは衛生状態が改善されていないってこと、 特に水害常習地区のソウル近郊ではあらゆるものが感染源となります 郷愁の消毒車探訪 全国の市町村には専門の"消毒部局"があり有害虫の駆除や病原菌の除去のために日夜戦っている、その効果は疑問視されているがなかなかやめられないのが実情のようだ。 [ソウルミーナ] 韓国では病虫害防止のために煙幕消毒器から出る白煙を撒き通う自動車をすべて合わせてソドクチャ(消毒車)と呼ぶ。 小学生たちの間では、 おならの車とも呼ばれる。 ちなみにその白い煙は、 ジクロロジフェニルトリクロロエタンと薬剤と灯油を一定の割合で混合して不完全燃焼させた煙を噴射するものである。 ▲ソウルでは毎週火曜日の早朝は消毒車の町内消毒からはじまる、旅行者にはあまり見ることのない光景だ。(디클로로디페닐트리클로로에탄) どう してなのかは分からないが今でも消毒車(ソドクチャ)を見ると、 韓国の子供たちは無条件に追いかける。 おそらく1990年以前の出生者はもちろんのこと、いくつかの90年代半ば生まれの人なら一度ソドクチャを追って行った記憶があるようだ。 さらに80年代までは、大人までが煙が体の雑菌を退けるからと一緒に走る場合もあった。 ▲小回りの利く消毒液散布車もある 場所はソウル中区薬水駅そば ▲こうして誇らしげに煙幕散布に従事する用役者もここでは一躍ヒーローになれる ▲消毒車のメンバーはお揃いのミドリ色ベストを着用している。 本来なら公務員がすべき消毒作業も韓国では非常勤の老人らが多くつかわれている。 ▲水害があったりすると消毒車は休み無く引っ張りだこになる、そのいっぽうで窓辺で買う小鳥などが変死する被害も報告されている ▲韓国ではこどもたちが争っておいかけるシーンが習性として多くみられる 最新の大型ジェット噴霧器を搭載した路上消毒車 ▲高層化する都市環境に対応するため大型のジェット式噴霧器が搭載された消毒車が話題になっている ▲車載式大型噴霧器、毎秒4㍑もの噴霧量は本来海外の大型農場での農作物消毒用として開発された。都市部でこの種のクルマを運用しているのは現在でもソウル市だけである (消毒文化を東南アジアに輸出しようとして失敗した) こうした光景にみなれている韓国人は、"ターボはすごいでしょ、トウキョウには虫が多いですね"というが、虫の発生源となる都市基盤整備が脆弱なソウルとくらべるとトウキョウの街がいかに清潔に保たれているのかを知らない情報弱者がかわいそうなくらいだ。 (ニホンでは昭和30年代ころまで似たようなことをしていた) 消毒噴霧車に儀装した毒ガス噴霧車というテロ行為が心配されているようです (これまでに散水車が糞尿を撒いたというケースは複数摘発されています。) なんと 野球場でも薬剤噴霧中 ▲ペナントレース最終戦前であろうが公開公式練習であろうが消毒車は球場の隅々まで消毒液を散布する、この時ばかりはバッティング練習も中断される。 大リーグに挑戦した韓国人選手によると大リーグの球場ではついに消毒車を見ることができなかったという。 消毒車が韓国で走り出したのは1960年代になってからといわれる、駐韓米軍の指示により枯葉剤の成分にもにた殺虫剤が大量に撒かれるのは今や韓国の日常風景になっている。 (解説:みそっち) |