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韓国人議員の身元詐称 あれとかこれとか

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まぁ『なりすまし』といえば韓国人ってすぐに思い浮かぶほどありふれたことですよね、ちょっとまえに韓国の首相候補のひとが『ウリのオジイは国家有効者ニダ』と言いだしたらたちまち論破されていました。 今頃はどうしてるかな


10年ほど前に金斗漢というひとが金佐鎮というひとの子供ではないという疑問が出てきたことがありました。

伝説の主人公はこんなの金斗漢議員(無所属)
 
イメージ 1[韓国日報] 1966年9月22日、現在のソウル市議会の建物がある当時のソウル中区太平路1街60国会議事堂。"特定の財閥密輸事件についての質問"が上程され二日目質疑応答のが開かれていた。ここに無所属金斗漢(キムドゥハン)議員が巨体を導いて壇上にのぼった。ボール紙で囲んだボックスを下に置いたまま、質疑を継続したガラガラ声がますます大きくなり始めた。

"私は無知なので、言葉よりは、主に行動に移します。不義と不正を知っても目をつぶってくれた腐った長官を国民の名で審判させていただきます。"
箱を持って丁一権首相など、国務委員らが座っていた席に近づいたキム議員は"これは国民が与えるサッカリンだから、均等に分けて食べなさい"と叫んで人糞が混ざっている汚れを不意に浴びせた。チョン総理と長官は避ける暇もなく、汚れをひっくり返して使ったし修羅場になった議事堂は、鼻を刺すような香ばしい臭いでいっぱいだった。いわゆる"国会汚物投擲事件"だ。

※国会議員としての任期は1954年~1966年

っとこんなひとなので、韓国のことをよく知らないひとでも”糞尿投げ”の元祖といえばわかるかな?


金斗漢は金佐鎮将軍の息子ではない。


イメージ 2[ミーナのコラム]英雄がない時代、そして'本物の男'-そんなのが'本物'あるのか分からないが、-がない時代に金斗漢に対する郷愁は、周期的に繰り返される。

金斗漢生前には、彼自身の口で大げさに膨らませた武勇談、彼の死去後は、1970年代に申相玉(シン・サンオク)監督、のイ・デグン主演のシリーズで、1980年代には小説家ホンソンユによって<朝鮮日報>に連載された<人生劇場>で、そして1990年代初頭には林權澤(イム・グォンテク)監督の<将軍の息子>シリーズで、そして世紀が変わった後は、<野人時代>に金斗漢に対する郷愁は、絶えずよみがえる。
もちろん、このような小説や映画に照らされた金斗漢(キム・ドゥハン)の生涯は大きな誇張と美化で歴史というよりは一つの神話で私たちの前に迫ったが、誰も神話の主人公になれるわけではないという点で、金斗漢(キム・ドゥハン)の生涯には何か特別なものがある。

将軍の息子、それは金斗漢を象徴する言葉だ。 一個人を論じる時その人個人ではなく、誰の息子というのがその人を象徴する修飾語になるというのはその人物が終えて、父親の七光りを脱しなかったということになる。 それだけ金斗漢(キム・ドゥハン)神話から、金佐鎭(キム・ザジン)の位置は絶対的だ。 父の後光がなかったら、金斗漢はただの裏通りやくざのボスや終戦後に白色テロの行動大将の一つしか記憶されることはできなかったのだからだ。
私たちは金佐鎮将軍と双璧をなすホンボムド将軍の息子を覚えていない。 李儁(イ・ジュン)烈士の息子で本当に独立軍大将となり、中国大陸を視察した李・将軍を記憶する人もほとんどない。 李・将軍は、北朝鮮で幹部を務めたためだ。
 
一部では金斗漢(キム・ドゥハン)が本当に金佐鎮将軍の息子が正しいかという疑問を提起している。 虎から、どうして山犬が出るかということだ。 しかし、金斗漢(キム・ドゥハン)が将軍の息子ではないという確証もどこにもない。 金佐鎮将軍の夫人ら遺族らが金斗漢を将軍の息子として認め、安東金氏一家も金斗漢を高く評価しないが、一家で受け入れることを躊躇しないが、確証もなく金斗漢(キム・ドゥハン)が将軍の息子がないと主張するのはつまらないことだ。

ただ、興味のあるのは金斗漢(キム・ドゥハン)が自分の名前で1963年に刊行された回顧録<ちぬられた建国前夜>で金玉均を自分のふりをする父と描写しているところだ。 金佐鎮が金玉均の養子に入ったということだ。
金斗漢の回顧録を基に朴チャンギュが1965年に刊行した<血で染めた民族史>では、金玉均を、金佐鎭(キム・ザジン)の伯父と書いている。 金玉均(キム・オクギュン)と金佐鎮はいずれも安東金氏が、等親では20親等以上離れた同じ門中のあるだけだ。 甲申政変が失敗して金玉均は日本に亡命した後、逆賊として非難されると、安東金氏の門中では金玉均(キム・オクギュン)、身内の序列の行列字を(均)で九(圭)に変えたが、金佐鎭(キム・ザジン)の父はおそらくヒョンギュン(衡均)でヒョンギュ(衡圭)と改名したのだ。 このような事情を考慮してみる時、金佐鎭(キム・ザジン)が金玉均の養子に入ったというのはとんでもない話だ。
金斗漢(キム・ドゥハン)が本当に金佐鎮将軍の息子が正しいかという疑いがしきりに提起されることも、考えてみると、彼の回顧録がとんでもない話で満ちているためだろう。

金斗漢(キム・ドゥハン)が本格的に抗日の英雄と描写され始めたのは、おそらく1980年代後半ホンソンユが金斗漢のやくざ時代を描いた小説を<朝鮮日報>に連載してからではないだろうか。 この小説の原題は<人生劇場>だったが、後に本で刊行されるときの題目を<将軍の息子金斗漢(キム・ドゥハン)>と付け、林權澤(イム・グォンテク)監督の映画もこのタイトルを取って付けたのだ。 <ちぬられた建国前夜>やこの本をもとに、朴チャンギュが書いた<血で染めた民族史>には<将軍の息子>で金斗漢と勢いを競った日本人暴力団組織の林札に対する話はない。
代わりに近衛(近衛)牌と一戦を競った話が出ている。 近衛札との一戦も鍾路の商圏を守るための民族的な立場で話されたのではなく、ただヤクザ(侠客)間の戦いで描写されているだけだ。

1960年代の金斗漢神話で侠客部分が強調されたが、この侠客(チンピラ)は抗日侠客はなかった。 金斗漢(キム・ドゥハン)牌と対決したというホンマチ(本町:今日の忠武路(チュンムロ))の林パイの林も、実は朝鮮人ソンウヨンビン(終戦後に建設協会副会長を務めたという)で、その部下もほとんど朝鮮の人々だった。
ただ、彼らは日本人ともっと癒着されているだけだった。 金斗漢も現在、中央郵便局の前にある自転車営業所の管理権を林から渡してもらう条件として林牌に統合されたという証言が出ていることを見れば、金斗漢と林の関係は<将軍の息子>類で描かれるそのような対立的な関係では決してなかった。 林と金斗漢のが一時対立したなら、それはギャングの領域争いのためだった、民族主義的対立とは言えない。
※チンピラ組織を中国式にと呼んでいます 青牌。紅牌といったヤクザ組織

最初は左翼陣営に加担
1960年代まで、金斗漢(キム・ドゥハン)が強調したのは、自分は抗日ではなく、反共だった。 <ちぬられた建国前夜>というタイトルが象徴するように、金斗漢は独立直後の左右対立で右翼白色テロの行動大将で大活躍した。 白色テロという言葉は金斗漢の本でとても誇りに無数に登場する。 1968年に刊行された<名人獄中記>に掲載された金斗漢の回顧録はさらに誇張が激しく、1945年12月7日左翼系列の国軍準備隊を襲撃して竹槍で胸を刺して一々死を確認し、建物に入れてガソリンをまいて火をつけ、計1300人余りを一時に火葬したと自慢している。 朴チャンギュの<血で染めた民族史>では、国軍準備隊襲撃で10人余りを殺害したと言ったが、数年の間に前科が100倍に増えたのだ。

しかし、民間人虐殺がしばらく行われた韓国戦争勃発以降、ならいざしらず、1945年12月に1300人どころか、十数人の虐殺までもなく、ありえもなかった。 この記録は、虚構ではあるが、虐殺の主役が虐殺を正当化したほぼ唯一の事例といえる。

金斗漢はこの時使用した兵器は解放直後、3千人余りの隊員たちを率いて龍山(ヨンサン)の日本軍司令部を包囲し、奪った兵器のうち、米軍に押収されなかったものであるとはいうものの、我々の手で日本軍を武装解除させることができたらどれほど良かったでしょう! ←それは無いってば

1945年12月なら、まだ左右間に物理的な衝突が本格化される前である、金斗漢(キム・ドゥハン)が属した大韓民主青年同盟が結成されるも数カ月前のことだ。 この時期、金斗漢は阿片を密売し、米軍政に取り締まられた後、西大門刑務所で3ヵ月間獄中生活をした後、出獄し、右翼ではなく、左翼の方に加担していた。 これを隠したため、解放直後に金日成(キム・イルソン)が特使を送って陸軍少将で南朝鮮人民軍司令官に任命し、金ボタンがついた軍服を送ったという荒唐無稽な話が出てくるのだ。

金斗漢は、日帝強占期と解放直後に最高の人気を享受した有名な落語家シンブルチュル(申不出)の影響を受けて、左翼系列の朝鮮青年前衛隊に加担して活動していた。 この組織には、金斗漢と過去の水標橋橋の下で一緒に、こじき生活をした幼馴染チョンジンリョン(丁鎭龍、金斗漢(キム・ドゥハン)回顧録には、鄭鎭英に出ている)も含まれていた。
チョンジンリョンは金斗漢と一緒に鍾路に属していたが、釜山に向かい、釜山の拳ボスになった後、解放以降にソウルへ上京して林牌が崩壊して以来、無主空山になった明洞の繁華街を掌握した人物だった。 ところでチョンジンリョンが清渓川を渡って鐘路に進出して5街と6街を掌握して南進してくると、金斗漢は、危機意識を感じるようになった。
特に金斗漢の下の中間ボスが数名チョンジンリョンチョクに移ろうこの危機感は深まるしかなかった。 これに金斗漢は、朝鮮青年前衛隊の一方的な解体を宣言し、部下たちを率いて右翼青年団体側に加担することになる。

大抵の回顧談は金斗漢(キム・ドゥハン)が初めて何も知らずに左翼に加担していたが、廉東振(白衣司令の盲人将軍とされる謎の人物)やパクヨンジク(朴容直)などから父親の金佐鎮将軍が共産主義者に殺害されたが、君がどうして共産党の役割をするのか、という言葉を聞いて説得されたというが、金佐鎮将軍が共産主義者に暗殺された事実は日本の植民地時代にも、知る人は知っていることだったが、その息子である金斗漢(キム・ドゥハン)だけが知らなかったということは信じられない。

金斗漢(キム・ドゥハン)が左翼陣営から右翼に移ったのは、暴力団の世界内の領域争いが左翼と右翼対決にまで飛び火したことと見なければならないのだ。



っという長い記事があります その続き


金乙東議員怒る、ホンモノ?の金佐鎮孫娘現わる


イメージ 5[ちょいまちミーナ]俳優であり政治家と金佐鎮将軍の孫娘の未来希望連帯の金乙東(キム・ウルドン)議員が金容沃(キム・ヨンオク)先生が過去に、金議員の父金斗漢(キム・ドゥハン)前議員が金佐鎮の息子ではないと主張したことについて、憤りをぶちまけた中で、金佐鎮将軍の孫娘は長屋の生活をしているという。

先立って、金容沃先生は、この1990年月刊'新東亜'への寄稿文で"金斗漢は金佐鎮将軍の息子ではない"と主張した。
金容沃先生はこの寄稿で"金斗漢は、開城で育った親を知らない孤児であり、先天的に才能を付与された乱暴者だが、ソウルに帰ってきて乞食の頭に捕まって乞食巣窟から大きくなった"、金斗漢(キム・ドゥハン)前議員が金佐鎮の息子というのは'フィクション'(小説)と書いた。
これに対して、金乙東(キム・ウルドン)議員は2日、国会文化体育観光放送通信委員会全体会議での発言で、金容沃先生が最近起きたEBS講義強制下車論議について、"これまで金容沃の行跡を見て、案ずるに来るべきものが来るなら来いと思った"、"(私は)彼がどれだけ根拠なく偏った人であるか、悪意をもって真実を歪曲して、ひどい暴言を繰り返す人なのかよく知っている"と明らかにした。
金議員は"インターネットではまだDNA検査をしなかったために'金乙東は、金佐鎭(キム・ザジン)将軍の孫娘ではない'という文字が幽霊のように飛び回る"、"金容沃(のこのような根拠のない発言と発表で受ける苦しみと被害は到底言葉で表現できない"と話した。

一方、金佐鎮将軍の孫娘の中国同胞ウィヨンホン氏は今年2005年光復60周年事業の一環として国家保勳処の招待を受け、帰国して法務部に永住帰国を申請した後、2年間、審査結果を待ったが、今年2007年10月、不許可判定を受けた。
当時、マスコミの報道をすると、ウィさんは娘を中国に残して一人で入国して考試院を転々とし、旅館で働いて宿泊を解決するなど悲惨な生活をしてきたが、政府は証憑資料の不備を理由に、結局、ウィさんを金佐鎮将軍の孫娘として認めなかった。


なんとまぁ”ご落胤説”まであったんですね


中傷誹謗だといわれた

金乙東は本当に、金佐鎭(キム・ザジン)の子孫か?
 
セヌリ党最高委員に上がった金乙東。


金斗煥(キム・トゥファン)そして金ウルドン 
金乙東(キム・ウルドン)...、金佐鎭(キム・ザジン)の孫娘というのは絶対に違います。(検索してみてください)
 
金佐鎮を父とする主張は、金斗漢(キム・ドゥハン)個人の主張です。そして、金斗漢の金佐鎭(キム・ザジン)に対する育成供述部分も年度が完全に間違っています。
国会議員のなって同じ過ちを犯しますが、その程度なら、金斗漢(キム・ドゥハン)が完全に嘘をついたと見ても構わないほどです。
 
金斗漢(キム・ドゥハン)が、金佐鎭(キム・ザジン)の息子ではないという証拠があるかと金斗漢(キム・ドゥハン)追従者らは抗議しますが金斗漢(キム・ドゥハン)が、金佐鎭(キム・ザジン)の息子という証拠がないことがその証拠で見ればいいです。。

金佐鎮将軍は若い年に暗殺を受けて自身の回顧録はありません、金佐鎮の本当の息子であるかどうかは遺伝子検査さえすればすぐ出ます。 
キムギョンミンという者が金斗漢の実の息子だが、キムギョンミンという者の遺伝子と金佐鎮将軍の実家の方の男と遺伝子検査だけでもすぐ出ます。 必ず、金佐鎭(キム・ザジン)将軍の遺伝子がなくてもいい、金佐鎮将軍直系の息子がなくても金佐鎮将軍一家の男の人ならいくらでも遺伝子検査で判別可能です。
 
男には性の遺伝子のうちにY染色体というのがあるが、これはいくら見返り降りても絶対に変わりません。 したがって、キムギョンミンが本当に金佐鎮将軍の子孫なら、金佐鎮将軍本家男の中で誰とY遺伝子同一性検査をすればすぐ出ます。 最近は遺伝子検査に一日もあれば判明します。 ただ、遺伝子採取して機械に入れば機械が知って遺伝子分析資料まで出力してくれます。
 
以前、金乙東(キム・ウルドン)氏が盧武鉉(ノ・ムヒョン)政府で見つけたと主張する金佐鎮将軍孫娘だと主張する女性と遺伝子検査は対照を拒否したが、これは、金乙東(キム・ウルドン)氏がよくしたものです。金斗漢のX遺伝子は親父じゃなくて母に受け取ったもので、金ウルドン氏のX遺伝子は、父と母にそれぞれ受けたものです。 だからX遺伝子を持って判別しようとすれば、とても複雑になって判別能力もほとんどありません。
 
したがって、金ウルドンの息子のソン・イルグクは金斗漢と何の遺伝的関係もなく、さらには金佐鎮将軍とそのどのような遺伝的な同一性もありません。 だからソン・イルグクが金佐鎮将軍と血縁関係というのはとても滑稽なことです。 法的にもソン・イルグクは、金佐鎮将軍と何の関係がありません。
 
イメージ 4金斗漢(キム・ドゥハン)が私生児だったとしても金佐鎮将軍が私生児認定をしなければならないが、金斗漢は1918年生まれて、金佐鎭(キム・ザジン)将軍は1930年に暗殺されて亡くなりました。 それなら、金佐鎮将軍が暗殺されて亡くなった時の金斗漢(キム・ドゥハン)が12歳もなったが、それならば、果して金佐鎮将軍が知らなかったのでしょうか。
 
そして大事なのは、金斗漢の母は妓生ということです。芸者たちの特性上、父の顔知らない子供たちがたくさん生まれるということです。
この男あの男と、体を混ぜますから。そして、金斗漢の出生地は、平壌(ピョンヤン)という説が有力視します。つまり、金斗漢の母は平壌妓生と見るのが正しいでしょうか。 参考に金斗漢の母はキムギェウォルという名前の妓生です。
 
果たして日本軍が殺そうと探している金佐鎮将軍割り、朝鮮の土地にそれも朝鮮の土地に入ってずっとだいる平壌(ピョンヤン)に行きたくても行くかあったんでしょうか。 金佐鎮将軍の顔は有名ですけどね。
※いえいえその人が将軍だったなんて当時の日本人は誰も知りませんよ

そして、金斗漢(キム・ドゥハン)が金佐鎮将軍の息子という言葉をキムケオルがしたという仮説もあり、金斗漢が、若い時にある老人が金斗漢に直接話をしたという説もあるが、世間に知られる直接的な原因は、金斗漢、自分の口を通じてです。 それ以外にはそのいかなる証拠もないのです。
 
だから、金斗漢は金佐鎮将軍の息子ではない可能性が99.99%です。
 
金斗漢の息子キムギョンミンが金佐鎮将軍一家男とY染色体遺伝子検査だけでもすぐに明らかになる物だが、金斗漢(キム・ドゥハン)が金佐鎮将軍の息子と客観的な証拠を提示する可能性のある遺伝子検査を受け取ることを拒否して口先だけで金斗漢(キム・ドゥハン)が金佐鎮将軍の息子だと主張しましょうか。
 
変ではないですか?
 
遺伝子検査を避けるということ自体が、すでに金斗漢は金佐鎮将軍の息子がないという暗黙的容認だと見ることができます。
 
イメージ 3金乙東(キム・ウルドン)...金佐鎮の子孫なら、なぜ親日売国奴がうじゃうじゃいるセヌリ党議員か。
独立軍の子孫とし、日帝時代を美化するニューライトの歴史教科書に黙っているのか。 その教科書の主張どおり、日帝が我々を豊かにしてくれたのなら、そのような日帝に対抗して戦った金佐鎮将軍は何がいいのか知りたいです。 本当の子孫なら、金佐鎭(キム・ザジン)将軍が目を見開き、むっくと起きることです
※いえいえだからぁ金佐鎮っていうひとは活躍なんかしてないんですよ んもぉ 



まさか親子三代で嘘つきの家系なの?



これはまた別の議員による先祖詐称事件

金希宣(キム・ヒソン)議員、家系と関連した疑惑と真実
本貫が違った人が、おじいさんって? やっぱり韓国人の家系は全部ニセモノですか?


イメージ 1[話題のミーナ]インターネットユーザーらの間で、突然金希宣(キム・ヒソン)議員家計図と関連した疑惑が広がっている。

 それは今まで既成事実と思われていた金議員が光復軍の金学奎(キム・ハッキュ)将軍の孫娘だということに疑問が起きたのだ。

事件の発端は、金議員のホームページと政治ウェブジン人プライズで起きた。
先ごろ"現韓国軍将官たちは、軍部独裁で細い骨が太い人たち"という金議員の批判についてネチズンたちの批判が殺到するなか、あるネット利用者が金議員の本館と金議員が、おじいさん、あるいは小さいおじいさんと指す金学奎(キム・ハッキュ)将軍の本館が異なるという主張を展開していたのだ。 


金学奎(キム・ハッキュ)将軍はインターネットを通じて検索してみると、安東金氏(ヤフー、ネイバー、ウィズ)に出たのだが、金議員の本貫は、ヨルリン・ウリ党の総選挙候補の検索欄に金海金氏として出ているというものだった。 したがって、金学奎(キム・ハッキュ)将軍と金議員は、一家親戚になれない関係だということだ。 


急に行われた金希宣(キム・ヒソン)議員のホームページの真実ゲーム

問題が提起されると、ネットユーザーたちの疑惑は次から次へと瞬く間に広まっていった。 その間に、金議員にこれに対する釈明を望む声も殺到した。 しかし、金議員は無回答だ。
それでは果たして真実は何だろうか。 金議員と独立軍の金学奎(キム・ハッキュ)将軍とはどんな関係だろうか。 また、金議員が父方の祖父、実父の略歴を光復軍ジャクムチェクなどで記載し、独立運動をした家門であることをいつも自負して通ったが、これの真実は何だろうか。
金議員の主張と客観的な資料を見て、その疑問を暴いていくようにしよう。

金希宣(キム・ヒソン)議員が明らかにする家系来歴と疑問点

金議員が明らかにする主要家系の履歴は、"おじいさん(金ソンボム-独立軍ジャクムチェク)と小さなおじいさん(金学奎(キム・ハッキュ)-光復軍3ジデジャン)、そしてお父さん(ハンドクダン青年党員、金九先生名で天津で活動するロシアベルホヤンスクの監獄に投獄、行方不明)"だ。 

しかし、金議員が明らかにする家族の歴史は解放直後の混乱な状況のためか、おおむね断片的な欠片だけだ。 小さなおじいさんの金学奎(キム・ハッキュ)将軍との関係は金九暗殺を前後した時期と6.25戦争以後、1年余りの期間がすべてだ。 主に金議員が、平澤(ピョンテク)の叔父の家で買う時に金学奎(キム・ハッキュ)将軍が、小部屋の片隅に隠れて暮らしたとする記憶だ。 

1.、出生地、疑問だ
金議員は1943年、満州の奉天信陽で生まれたと話している。 しかし、金議員の出生地は金学奎(キム・ハッキュ)将軍と同一した平安南道平原になっている。 自ら明らかにした出生地さえ間違ったのだ。 これは1990年汎民族大会当時、金議員の経歴(満州ボンチョンセン)と総選挙候補の出馬出生地(平安南道平原が異なったことからも分かる。

もちろんこれは出生地と戸籍地が違うことができるため、十分に疑問が生じかねない問題だ。 つまり、出生を旅行中にしたとしても、両親が起居している方で出生届出をしてこれを出生地で記述することなどいくらでも可能なことだ。
しかし、疑問は依然として残る。 金議員が明らかにしたおじいさん、金ソンボム(独立軍ジャクムチェク)の出生地が平安南道平原ではないためだ。 金議員が指摘したおじいさん(金ソンボム-独立軍ジャクムチェク)を独立記念館情報で検索してみると、1899年、平安北道酢酸で生まれ、主に義州天馬山臺(日本の植民地初期の独立軍の一種)で活動する、1926年に検挙投獄され、1930年に死刑執行されたと記述されている。
これはおじいさんは、平安北道で、孫娘は平安南道に戸籍地が他ということだが、なかなか納得がいかない部分だ。 それなら、金議員が明らかにしているおじいさん(金ソンボム)と独立軍(金ソンボム)は同名異人の二人の人物か? しかし、我が国どの独立資料にも金ソンボムが2人という記述はない。

それでは金議員が小さなおじいさんと明らかにした金学奎(キム・ハッキュ)将軍はどうだろうか。 独立記念館資料室で金学奎(キム・ハッキュ)将軍を検索すれば、1900年平安南道平原郡(ピョンアンナムド・ピョンウォングン)出身で出ている。 その後、満洲に渡り、新興武官学校を出て近所の中学校で教鞭を取ろうとして、1931年に独立運動に投身したことが明らかになっている。
つまり、金議員が、おじいさん、小さなおじいさんと明らかにした独立軍の金ソンボムと金学奎(キム・ハッキュ)将軍は生まれた出生地が全く異なっており、歳の差も11年も出て活動時期や地域も全然違うのだ。
 

2.出生来歴疑問(本館及び戸籍関係)
ネチズンらは主に金議員の戸籍と金学奎(キム・ハッキュ)将軍の戸籍の不一致を問題視している。 つまり、金学奎(キム・ハッキュ)将軍は本館が安東で、金議員は義城、または金海金氏ですが、どう考えても一家親戚になり得るかということだ。
ヨルリン・ウリ党の総選挙候補プロフィールと中央日報の人物検索欄には、金議員の本館が金海(キムヘ)で出ており、朝鮮日報と東亜(トンア)日報の人物検索欄には義城(キョンサンブクド・イソン)に出ている。 
そこで筆者は金海金氏大宗会と義城金氏大宗会で資料を探した。 そしたら、義城金氏の歴史人物欄に金希宣(キム・ヒソン)(現国会議員)と記載されていた。 義城金氏大宗会に確認をしたら、記載された内容が'合っている'という返事だった。 
問題は、金議員が明らかにした小さなおじいさんの金学奎(キム・ハッキュ)将軍の本館である。 各種ポータルサイトの検索欄に金学奎(キム・ハッキュ)将軍の本館は安東(アンドン)に記述されている。 しかし、ポータルサイトが間違った可能性も排除できないため、より確実にするため、各金氏大宗会を通じて人名名簿を確認してみた。
そうしたら、安東を本とする金氏の中で、敬順王の息子キムスクスンを始祖とする旧安東金氏では金学奎(キム・ハッキュ)将軍が使う学ぶの取組や罰奎という人名を見つけることができなかった。 それでキムソンピョンを始祖とする新安東金氏の人名者を探してみた。 そうしたら菌(ぎゅ)、ジーン、一、東にハンリョルジャの順序が分かった。

金玉均(キム・オクギュン)、金佐鎭(キム・ザジン)、金斗漢、金ウルドン・・・こんなふうに下がることだ。 しかし、新安東金氏の菌(ぎゅ.さあ身内の序列は音は同じだが、漢字は圭者に金学奎(キム・ハッキュ)将軍の罰奎と運んだ。

だから、今度は慶州金氏名簿一覧を探してみた。 そうしたら水銀コンパ45歳から学ぶの取組の字を使う親族の世数が現れ、今も、慶州金氏水銀コンパでは学者位をたびたび目にする。 もちろん、義城金氏身内の序列も追跡してみた。 そしたら、義城金氏ハンリョルジャで'稼ぐことが奎'字を使う親族の世数が分かった。
ただ、金学奎(キム・ハッキュ)、金ソンボムが独立運動家という記録は発見されなかった。 義城金氏の門中は、深山キムチャンスク先生など独立有功者を最も多く排出する家門でこれに対して詳細に明らかにしておいているが、どこにも金学奎(キム・ハッキュ)、金ソンボムの名を見つけることができなかった。
 
したがって、金議員と金学奎(キム・ハッキュ)将軍が一家親戚になるためには義城金氏デジョン会記録と各種ポータルサイトの検索情報が誤っており、金学奎(キム・ハッキュ)将軍の名前が身内の序列と関係なく建てられたものでなければならない。 こんなこと金議員と金学奎(キム・ハッキュ)将軍が一家親戚になる道が開かれるのだ。 

金議員が明らかにした記憶から現れる疑問
金議員は自身のホームページで小さなおじいさんの金学奎(キム・ハッキュ)将軍に対する記憶を言及した。 主に金議員が、平澤(ピョンテク)の叔父の家に起居しているとき、小部屋の片隅に隠れていた金学奎(キム・ハッキュ)将軍に対する記憶と6.25戦争以後、1年余りの期間だ。 
しかし、これも追跡をしてみたら、疑わしい部分が数ヶ所現れる。 それは金学奎(キム・ハッキュ)将軍の履歴を見れば分かる。 その量が多いことに幾つかまとめてみると次の通りだ。 
独立記念館の検索の資料によると、金学奎(キム・ハッキュ)将軍は1931年東明中学校教員を辞めて光復軍に入った後、中国本土と満州を行き来しながら、光復軍で各種活動をしていて、光復軍招募(募集)の任務を務め、51人を集めて第3支隊を創設して池に大将になった。 
解放後、ソウルに入ってきた金学奎(キム・ハッキュ)将軍は、金九(キム・グ)先生について韓国独立党を組織することになり、その党の組織部長の役割を引き受け、組織を総括することになる。 その中、ホンジョンマン、安斗煕などの誘いに乗せられて彼らが韓独党に加入できるよう手配をすることになる。 
その後1949年・安斗煕(アン・ドゥヒ)によって金九(キム・グ)先生が殺害されると、李承晩(イ・スンマン)政権は安斗煕の個人犯行に追い込んで行こうとする。 それによって安斗煕と安斗煕を入党させた金学奎(キム・ハッキュ)などを逮捕して軍法会議に付託する。 安斗煕と金学奎(キム・ハッキュ)将軍は15年の刑を言い渡された。
6.25が起きると、安斗煕は釈放されて、金学奎(キム・ハッキュ)は、釈放されないまま西大門刑務所にいましたが、人民軍のソウル進駐以降、解放される。 その後、水原(スウォン)で隠居していて、1953年に戦争が終わった後、再び李承晩(イ・スンマン)政権によって検挙されて4.19の直後、釈放された後、韓国独立党再建委を組織し、その代表に就任したが、1962年、建国功労勲章を受章して1967年に死亡する。

これが独立記念館資料と金九暗殺の関連論文、そして金学奎(キム・ハッキュ)将軍の回顧談を通じて見た独立運動家の金学奎(キム・ハッキュ)の由来である。 
金学奎(キム・ハッキュ)将軍の来歴を見ながら、金議員の記憶と関連した疑問点は一二がなかった。 先に金議員は小さなおじいさんの金学奎(キム・ハッキュ)将軍と一緒にした時間が投獄前にしばらく、そして6.25以降、1年余りの期間だと述べている。 
第一に疑問は金学奎(キム・ハッキュ)将軍が主にソウルで活動しており、平沢(ピョンテク)に行って起居したのは6.25以降、西大門刑務所から出所した後、水原(スウォン)で隠居した時期が唯一だということだ。 それなら、金議員の記憶はおそらく金学奎(キム・ハッキュ)将軍がしばらく水原に隠居している時仕事と推論できる。

ところが1960年刑務所を出所した後、金学奎(キム・ハッキュ)将軍は再び旺盛な活動をしていて、1967年に死亡してしまうのだが、それに対する金議員の記憶は、どこにも見当たらない。 十歳前後の記憶だけあって、二十歳前後の記憶はないなんて実におかしなことがではないか。 金議員がそんなに自慢したい小さなじぃさんなら当然、出所後も往来がなければならなかったのではないか。

第二に疑問は金学奎(キム・ハッキュ)将軍の妻と関係したのだ。 金将軍の夫人はオグヮンシムに金将軍と共に光復軍で活動していたが、1976年に死亡したことが明らかになっている。 もし金将軍が金議員の小さなじぃさんならオグヮンシム夫人は小さなおばあさんになるのだ。 オ夫人は夫とは違って、刑務所に投獄されないまま、ソウルと京畿道一帯に住んだということが分かっている。 
それでも独立軍の家系を自慢げに話す金議員の何らの記憶にも小さなおばあさんに対する記憶はない。 オグヮンシム夫人も金学奎(キム・ハッキュ)将軍のように活動を盛んした独立志士であり、光復軍第3支隊の宣伝責任者の役割をした人だ。
建国功労勲章まで追叙されまでした。 そんな小さなおばあさんに対する記憶がないなんて、そして小さいおばあさんの家を一度も訪ねていないなんて本当に疑問でなければならない。

果たして真実は何だろうか。
このように金議員の記憶と金議員が明らかにした金学奎(キム・ハッキュ)将軍、そして独立軍の金ソンボムの間の関係は疑問だらけだ。 出生地と戸籍関係、そして彼らに対する記憶まで...
このような疑問から、ネチズンたちは、金議員に明確な釈明を要求しているのだ。 総選挙候補者として、そして国会議員として自分のプロフィールをだましたなら、これは犯罪行為と変わらず、、選挙法違反となる。 したがって、金議員自らが明確な釈明を通じて世間に起こっている疑問について明々白々に明らかにする必要がある。 
特に、光復軍3支隊長だった金学奎(キム・ハッキュ)将軍は解放後、不幸な歳月を送った。 安斗煕氏などの誘いに嵌まってしまい、自分が一生に仕えた金九先生が暗殺されるが、助けをくれた格好になり、これによって収監生活までの苦労を経験した。 このような金学奎(キム・ハッキュ)将軍のためにも疑問は、確かに明らかにされなければならない。
果たして金希宣(キム・ヒソン)議員は金学奎(キム・ハッキュ)将軍の兄弟の息子の娘が合うのだろうか。 この疑問について、本人の説明と継続的な真実追跡が行われなければならないかな?



というのもありまして すごいなぁってね


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