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Channel: minaQのつぶやき 네토미나
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いわゆる'皇帝労役'と言われたアレ 労役場

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そうだ、罰金のかわりに労役場に行こう 韓国の犯罪者保護

仕事をしなくてもマイナス400万ウォン…貴族労役場生活して見てみる
懲役刑とは違う、韓国の労役は最長3年、罰金が多ければ日当が高くなる仕組み


イメージ 1[メディアミーナ]2年前の、いわゆる'皇帝労役'事件覚えていますか?  250億ウォンあまりの罰金を未納した企業会長にわずか50日間の、労役が言い渡されると、日当5億ウォンの皇帝労役とし、世論の非難が高まった事件です。

以後、法が改正されたが、依然として労役期間は最長3年まで可能、未払いのされた罰金が多ければ多いほど日当が高まる仕組みです。

全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領の次男、ジェヨン氏は罰金38億6千万ウォンの代わりに、2年8ヵ月間の労役を選択しました。
依然として貴族労働という批判が出ている中で、一日当たり400万ウォンの労役場生活はどんなものでしょうか。


罰金未納で労役場に留置されても収監生活をするというのは同じです。
服も他の収容者たちと同じ服を着ます。朝6時に起きて7時に朝食をして、9時から労役を開始します。

昼12時から1時まで昼飯の時間一時間を抜いて午後5時まで通常は1日7時間の間、労役をします。労働の強度は非常に低い方なので、封筒折りや掃除のような単純なことがほとんどです。

午後5時以降には夕食後、自由時間を送る、夜9時に寝ます。

独房を使ったり、労役場留置された人同士が同じ部屋を使って、労役する時も懲役刑を受けた他の受刑者とは分離されて働いています。

週5日、労役をするが、働かない週末や休日も労役場留置期間に含まれて罰金は400万ウォンずつ減額されます。

また、本人が望まないと強制労役をさせることができません。

この時、一日数千ウォン程度の作業激励金を受けていないだけも罰金は減額されます。
法務部は、個人情報などの理由を挙げて、チョン・ジェヨン氏が独房にいるのか、どのような作業をしているのかなどは確認できないと明らかにしました。


(翻訳:みそっち)



罰金のかわりに労役につくのが労役場です、ニホンでも罰金額によっては日当が跳ね上がることがあるのは同じです。ところが韓国では労役場で働かないという選択もできるのです。これは犯罪者保護という国民の権利を守ることで解釈されています


5日間、労役場に行ってみたら..
低所得層、罰金を払う難しくなって...分割納付の方法を模索すべき

この11日(金)から15日(火)まで(5日間)労役場留置をしました。 もちろん、罰を受けるために連行され、労役場留置をしたので私の過ちが大きいです。 罪名は'交通事故特例法'と'労働基準法'違反です。

昨年10月頃です。 動画記事を作るために映像を編集した後、一睡もせず、取材に行って事務室に入る道に信号にかかって止まり、途中居眠りしました。 そして青信号が点されるや、すぐ出発したが、前の車が出発せず、追突してしまいました。
その被害者は首筋も痛くて、車両も修理しなければならないから、合意金で300万ウォンをくれといいます。 お金がなかった私は数日後、警察署に行って調書を受けて12月頃に罰金の告知書を受けました。

また、昨年職員に2ヵ月半分の250万ウォンの給与を押されたまま与えられず、10月頃に告訴を受け、これも12月頃に罰金の告知書を受けました。 金額の合計は280万ウォン。
インターネット新聞をするが、金儲けにならないため、いつでも借金に苦しめられています。 一ヵ月で稼ぐ金といっても平均約50~60万ウォン。こう見ると家賃が押されることも茶飯事で電気代と電話代も押されて打ち切られかねなかったこともあります(電話1台は結局、切られました)。
とにかくたまに入ってくる支援金とたまにくる広告費でやっと支えながら維持してきました。 こんなに難しい中でも断るに自負しながら過ごしたが、現実の前にはあまりにも大変でした。 結局、罰金を払えず、手配が下されました。 その後、10日に取材した動画を編集して、11日夜明けに家に行く途中、検問にかかり、結局、刑務所に入りました。

低所得層に罰金100万ウォンは作ることが困難だった金
労役場留置をする5日間の様々な人を会いました。
私より二日遅れて帰ってきたAさん。A氏は糖尿病の合併症のある患者でした。 彼は糖尿病合併症でショックを受けて倒れ、119番で病院に運ばれたそうです。 家族たちに伝えるために119番が警察に通報したが、警察が身元照会する過程でA氏が罰金刑を受けた手配者であることが明らかになったとします。 交通事故特例法だそうです。
そんなに病院で治療を受けて目覚めたA氏を警察は、検察庁に移送し、彼は結局、刑務所に入り、労役場に留置されたとします。 治療費のために罰金を払わずにいたそのA氏は現在、留置場で、断食闘争中です。 その理由はご飯を食べた場合、血糖が高まり、また、ショック状態になる恐れがあるためだと申します。 しかし、刑務所では特別な対策がありません。 ただ、インスリン注射を打ってくれたことしか。
B氏は60代の方でした。 廃品を集めてやっと,やっと生きていくそのお年寄りの方は、ある日道端にあるステンを発見し、誰が捨てたと思い、積んで行ったとします。 しかし、いくら考えてもそのステンを捨てたようではないという気がして、再びその位置に置くために行ってちょうどステンの主人がそれを発見して警察に通報したとします。

警察は調査をした後、この方を向けて送っており、約2ヵ月後に罰金90万ウォンを払えという通知書を送りました。 1日に稼ぐお金がやっと多くて1万ウォン、少なければ1万ウォンもしないその高齢者には非常に大きなお金です。それで罰金を払わずに労役を生きるに心を食べて入ったそうです。 1日の労役費が5万ウォンであるに90万ウォンなら18日間の労役場留置をすればいいのです。

"お年寄りのお金を出して早く出てお金を稼ぐのがましじゃないですか?"
"一日に5万ウォン以上稼いだらってことか? しかし、そんなに得られないからそのお金を払うより、家族たちが生活するのに使うのがいい。 私はただここで休暇もらって休むと思えばいい。"

私はこの言葉を聞いた瞬間涙が出ました。
このほかにも夫人がガンで治療を受けていて罰金を払えず、手配者になった人をはじめ多くの人々が、お金がなく、罰金の代わりに労役場留置を耐えていました。 ほとんど50代以上年配の方でした。
生まれて初めて入った刑務所であり、震えて恐ろしかったりしていたが、互いに理解して暖かく接してくれ、刑務官も尊敬語についてくれました。

労役場留置5日間生活が苦しく、罰金さえ払えない会員が自分だけでなく、家族たちにも大きな痛みをもらってまた生計に脅威をされているのを見て心が痛かったです。 特に年配の方は家族にすまないとして連絡をしないそうです。 また、連絡ができて家族が訪れると、心配するな、安心させ、罰金を払うお金として生活するのに使えと言うとします。 そして、涙を盗みます。
いくら刑務所でお互いに理解し、助けてよくしてくれるとしても自由を剥奪されているくらい苦しいことはありません。 朝起きると、水で顔をしたり、シャワーをしなければならず、凍みる歯を我慢しながら冷たい水でうがいをしなければならなかったです。 そして、朝から夕方まで横になったこともないまま、一日中部屋に座っていなければなりませんでした。

働きながら罰金出すことができるように分割納付を模索すべき
私は彼らを庇護しようとしているのもいいえ、私が労役場留置をしたことを正当化しようとすることもありません。 ただし、これらの苦痛を和らげ、できるだけ彼らが労役場留置をしないように政府が、罰金の分割払い制度を施行したいと思います(あ、カードで納付するものもだめだと言ってます)。
犯した罪は返さなければならないために必ず罰金は納付しなければなりません。 だから持続的に仕事をしながら少しずつ罰金を分割して納付するようにする場合、仕事を継続できるようになるのに家族たちと自分が生計に脅威を受けずに問題を解決することができませんか?
罰金を払えず、手配者になって急に刑務所に入ってくると、職場から追い出され、日雇いも見つけるのが大変になります。 それでは二重三重の苦痛が伴います。
したがって、分割納付に罰金を必ず払わせるようにするようにする一方、分割まで上げられなければ何の理由があるかどうかを確認した後、お金があるにもかかわらず、払わなければ、労役場留置をさせてお金がないと、引き続き延長させて最後まで罰金を出すよう誘導ということです。
もちろん、この方法がより合理的とは思っていません。 ところがこれらを救済する方法は模索してみなければならないじゃないでしょうか。


こんなふうにもっともらしいご意見は記事になるんですね。


イメージ 2さて、罰金が払えないという罰金制度が無かった朝鮮時代はというと”おしりぺんぺん”という刑罰がありました。「苔刑」ですね
これは写真などでよく知られているわけですが、ニホンの統治が始まると即座に禁止のお触れ書きを出したので、1930年代の撮影といわれるこれらの写真の多くは再現写真であって、実際の刑罰のシーンでは無かったようです。

では朝鮮時代にはこれで借金がチャラになったのか、というとそうではありませんでした。なぜなら朝鮮社会は貨幣経済では無かったからです。つまり経済犯への処罰としては窃盗みたいなことへの刑罰だったものと推定されます。

ニホンの総監府設置は1905年(明治37年)ですが、それ以前から朝鮮の近代化という名目で収税や国家事業などに口出しをしてきたので、総監府設置とともに急にニホン式が導入されたわけではありませんでした。
大韓帝国と名前を変えるころの混迷した朝鮮ではニホン式の貨幣経済をなんとか真似しようとして貨幣鋳造までまねごとをしたりしましたがかえって混乱をまねいてみたりして滅亡へと突き進んで行きます。
そのころの記録によれば、農村から逃げてきた生活者が漢城には増えてきて、いろいろな職業が生まれてことがわかっています。
そんな中で金貸しというのは比較的早くからはじまったようです。この商売はカネを貸すところは現代と同じですが、その返済は”無期分割”という変わったものとなっていました。無期分割ですからお金を借りるといつまでも返し続けなくてはなりません。貸した方には証文という強い味方があるのですが、借りた方には返済の領収書というものがなかったので何年でも支払い続けることが強要されたりしました。
借金の取立ては、回収するほうがいつまでも付きまとうということで、”借金返済者”を7~8人から、多くて15人も持てばそれらの稼ぎから回収する上がりで”借金取立て人”はイイ暮らしができたと言います。
このような場合の借金で貨幣経済の無かった朝鮮時代ではおそらくは穀類などの現物だっとようです。(もちろん人身売買とかもね)

ニホンでは貨幣経済が発達し質屋でも今で言う金利の計算などが庶民の間で知れ渡っていたわけですが、朝鮮では物々交換からいきなり近代の貨幣社会構造に似たものが取り入れられたため、現在の韓国でもほかの世界では見ることの出来ない特異な商習慣があったりします。傳貰とよばれる預け金式家賃支払いとかですね。
これもある意味では”無期分割払い”という考え方から生まれたものです。
ニホンでは住むところと言えばアパートなどの賃貸物件(借家)と持ち家に分けられるかと思います。韓国の棲家にある傳貰(チョンセ)という方式では毎月の家賃支払いが無いので、家賃支払いが無い=持ち家? っといった誤解が広く広まったりもしましたが。3年ごとに更新があることや、傳貰のお金の融資を受けてその返済をしているということなどから持ち家でないことは明らかでしょう。
でも家を出て行く時にはお金を返してもらえるんでしょ? いえいえ、そのお金って現金じゃなくて、銀行の信用状みたいなものですから次に借りる時にはその金額ですが、札束ではありません。しかしそれを担保にお金を借りることはできます。
しかも傳貰ローンの支払いは永遠に続きます そいうことです。





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