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済州レンタカー90キロの速度制限を推進

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レンタカー人命事故、毎年増えて、国土部難色もある道の再推進


済州レンタカー90キロの速度制限を推進
最高速度制限装置(時速90キロ)の設置を義務化する案


イメージ 1[ゆかいなミーナ]済州を訪れる観光客が急増し、レンタカー交通事故による人命被害が毎年数百人に達したことが分かった。このために済州島はレンタカー車両の最高速度を時速90キロに制限する方策を推進中だ。


15日、済州(チェジュ)地方警察庁によると、済州(チェジュ)地域のレンタカー交通事故は2013年394件、2014年393件、2015年525件、今年に入り、5月末現在で185件が発生した。 レンタカーの交通事故による人命被害も2013年死亡14人ㆍ負傷641人、2014年3人死亡ㆍ690人負傷、2015年11人死亡ㆍ941人負傷、今年これまで6人死亡ㆍ321人の負傷などで集計された。 昨年、1日平均1.4件の割合でレンタカー交通事故が発生、2.6人の割合で死傷者が発生したわけだ。


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▲済州を訪れる観光客が急増し、レンタカー交通事故による人命被害が毎年数百人に上っているため、レンタカー車両の最高速度を時速90キロに制限する案が推進される。 写真は、最近、済州地域で発生したレンタカー交通事故現場。済州道消防防災本部提供。


このようにレンタカー交通事故が頻繁に発生する理由は、済州を訪れる観光客が増え、レンタカー車両も急増した上、運転が未熟だったことや、初めての道による安全不注意に、スピードの出しすぎなどが主な原因と指摘されている。
実際に道内レンタカー車両数は2013年1万6,423台、2014年2万720台、昨年2万6,338台、今年は現在2万8,639台など、最近4年の間1万台以上急増した。

このようにレンタカー交通事故が急増すると、済州道はこの4月、国土交通部に済州(チェジュ)地域のレンタカー車両を対象に、最高速度制限装置(時速90キロ)の設置を義務化する案を建議した。
しかし、国土部は済州(チェジュ)地域のレンタカー、事故発生原因が、スピード違反という客観的な根拠が足りないだけでなく、現行の自動車の安全基準を地域的制限やレンタル事業用の有無などに限定して適用することができないという立場を見せている。
これに済州島はレンタカー最高速度制限装置の設置義務化案を6段階済州(チェジュ)特別法制度改善課題に含めて再度推進することにした状況だが、関係省庁が否定的な立場を見せていて、易しくない状況だ。

済州道の関係者は"レンタカー速度を制限すれば、死亡事故など、人命被害は大きく減少することでともに共感している状況"とし、"現在、貸し切りバスと貨物車については、速度制限規定を置いているだけに、レンタカーにも適用する案を済州(チェジュ)特別法改正を通じて推進する方針"と話した。


(翻訳:みそっち)



済州島は韓国の中でもかなり独立性みたいのがちがうんですよ。ビザなし観光客も済州島観光ならOKですからね。 このへんは住民虐殺があったせいでかなり独自性が許可されてるんだと思いますよ。

虐殺があれば脱出者も多いってことです・ そのへんからこちらをどうぞ

"済州の人30人のうち1人は'大村収容所'出身だった"
在日同胞彼らは誰かと'不良外国人'と'密航者'らの集合所
 
http://www.jejusori.net/?mod=news&act=articleView&idxno=92744
筆者は1955年生だ。 筆者が'大村収容所'という単語を聞いたのは小学校の時、1960年代だ。 密航に行って捕まったら大村収容所に送られて、そこにちょっと泊まって、韓国に強制送還されるまで収容されるところで、知っていた。 '大村収容所'という単語はその後から今までどんな単語よりもっと出して頭の中に確実に残っている。 私だけでなく、1950年代以前に生まれた済州島の人には大村収容所という単語がすっかりなれした単語として記憶されている。 また、大村収容所を経験した済州島の人たちも一万五千人以上いた。 その後死亡などで自然に減少を反映しても、まだ約一万人は今も、済州島にあるはずだ。 このように'大村収容所'は済州道の人にすっかりなれした単語だ。

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▲チュパキマユ(椿丸)という船の写真。1961年7月から1968年3月まで25回にわたって大村収容所から韓国に強制送還する際に使用した船。

当時、済州道の人口は約30万人、その中1万人以上が大村収容所を経験したら、済州道の人口30人のうちの1人は大村収容所出身だと言える。 大村収容所には、密航して日本で捕まり韓国に強制送還を待っている人もあったが、日本にいる同胞もあった。
日本国内で刑事処罰を受けて刑務所で刑期を終えた後、不良外国人られて強制退去命令を受けた人たちもいた。 刑事裁判で7年以上の刑を受け、日本の刑務所で刑期を終えて出所した在日韓国人たちが強制退去命令を受けて、大村収容所に再び収容されて、韓国に強制送還させるということだ。 これらの刑罰違反の強制退去の同胞は、1952年5月の第8回目の送還の時送還者410人のうち刑罰違反者125人が含まれるが、刑罰違反者125人は韓国が引き取りを拒否してまた大村収容所に帰ってくることになる。 韓国政府では密航に行って強制送還なる人は韓国で受けられるけど、海外同胞として日本国内で刑事処罰を受けた人は日本国内の問題であるという解釈で買収を拒否したのだ。
その後刑罰違反者は引き続き、韓国政府から買収を拒否して、刑罰違反者の韓国への送還は実際に不能の状態に陥るようになった。
しかし、日本政府は7年以上の刑罰者は刑務所出所後に強制立ち退き命令を下して、大村収容所生活をさせ、1年∼2年くらい収容所生活をさせて釈放した。
被収容者のうち、密航者と刑罰違反者(同胞)の割合は1962年、統計として密航者78%、刑罰違反者22%だった。
  
大村(大村収容所はどこにあるのか?
大村(大村)市にある。 大村市は九州(九州)の長崎県にあり、長崎市(長崎市)の北側に付いている都市である。 長崎県は済州島からすぐ東側で済州道で最も近い日本が'長崎'だ。 長崎は2次世界大戦の時、原子爆弾が投下された都市であり、また、世界的に美しいことで有名な港(美港)だ。 また、長崎は日本屈指の観光地であり、日本の流行歌に'長崎'をテーマにした歌もかなり多い。
この'長崎'の関門である長崎空港(長崎空港)は、大村湾(湾の既存のいる島を埋め立てて作った海上空港だ(1975年完成)。空港で海を渡れば(橋を渡れば)のすぐ大村市(大村市)だ。 この空港は、日本国内線はもちろん、韓国ソウルとも国際線に連結されている。 この空港島から市内に出るためには、長さ約2Kmの橋を渡ってこそ、陸地に出ることができる。 この橋を挟んで、陸地の方に飛行場がもう一つある。 わずか2Kmの海を隔てて滑走路2つが並んでいる、とても変わった飛行場だ。 海空港島飛行場は民間長崎空港(長崎空港)であり、陸地の方の飛行場は軍用飛行場日本海上自衛隊の飛行場だ。
この空港島で陸地の方に橋を渡るとすぐ左には憎き'大村収容所'がある。 陸地の方の軍用大村飛行場の垣根に東に付いている。 長崎空港を利用する日本人たちも、またソウルに向かってソウルからくる韓国人たちもつい鼻の先にいる限りたくさんの'大村収容所'を知らずにただ観光気分に浮かれて飛行機に乗って降りていたのだ。
鼻先にある恨み多い'大村収容所'の中には観光ルートとはあまりにも距離があり、人間の生の最も底で食うか食べないかを直面している人たちを、法という強制の力で集めているところがこの収容所だったのだ。
今は、収容所建物はなく、大村入国管理センター(大村入国管理センター)に名前も変わり、新しい建物が建てられている。
所属は日本法務省入国管理局に所属している。 当時は横浜(横浜)収容所、西欧人と中国人を収容と大村収容所(韓国人収容)の2つの収容所だったが、1993年から東京(東京)には東日本(東日本)入国管理センター、大阪に西日本(西日本)入国管理センター、大村に大村入国管理センター、3の収容所体制としている。 今は大阪で密入国にかかっても大村収容所に行かず、大阪にある入国管理センターに収容されたが、一般の飛行機で韓国へ強制送還になる。
※特定の国対象の収容所があるのは韓国人向けの大村入国管理センターだけである


内部はどんな形か。
収容所は1950年、旧日本海軍の建物を引き取り、収容所に使用することになる。 1950年以降何回も改修と保守をしながら、内部形態が変わるようになる。 1970年に収容所が発行した『大村入國者收容所20年史』を観ながら、どんな形で収容されたかどうかを調べてみよう。
総面積1万4千坪、収容所は、周りを高さ約5mの鉄筋コンクリートの壁に、また、壁の四角には逃亡監視のための見張り小屋があって、夜には2チョンチョクの監視などで逃亡を監視する。 収容所内には9つの建物があるが、一般囚人を収容する建物は1棟(女性用)、(2棟は1968年解体)、3棟、4棟、5棟であり、特に6棟(収容所の中の監獄、ドクゴドン)、と7棟(病棟)があった。 各棟は2階であり、1階に10人定員の部屋が10個、2階に10人定員の部屋がある。
この10個、つまり20の部屋があって、各部屋に化粧室、洗面所があった。 1棟に200人、5棟で、収容人数は1千人だった。 収容所内に刑務所に該当する6棟は、収容所規則を違反した人々を隔離監禁する場所であり、1階と2階に独房50室があった。
7棟は病棟に1階は独房、2階は一般ジャプゴシル部屋と同じ構造をしていた。 7洞病棟とすぐついているジンリョドンには、薬局医務室診療室の手術室X船室、病理検査室などがあったが、名前プンマンウィ診療所だった経験者らは異口同音に語っている。
また、講堂があるが、最初は映画など講堂の機能したが、1958年からは一般の収監者たちの使用は原則的に禁じて、出国手続きの際、税関検査をしたり、韓国の政府系映画の団体観覧時、入場にだけ使用された。 普段はギョンビグヮンたちの舞踏の訓練場で使われた。

各棟の間には、約150坪の庭(運動場)があるが、朝7時から夕方5時まではランタンに付属された庭まで出ているのは許容されるが、他の棟の庭に行くことは許されない。 つまりこちら東にある人があちら東にある人との接触は許されない。
被収容者は朝7時起床、7時30分掃除、8時に朝食事、8時30分朝点呼、12時、昼食、4時30分夕食、5時〜夜の点呼、10時就寝、と一日が締め切りになる。
夜10時就寝から朝7時起床までは各自は自分の部屋で入って行かなければならない、看守は各部屋のドアに鍵をかけて出入りができなくする。 昼には各部屋から出てもよいが、許される範囲は各棟の庭までだ。

食事は食堂があるのではなく、毎のとき当番が自分の部屋の人数分をもらって来て部屋で食事をするようにした。 食事は麦と米が腐らせた雑穀だった。 済州道(チェジュド)出身は麦飯に慣れていることで米が混ざった麦飯を食べるために大きな苦痛がなかったが、陸地部出身たちや同胞出身たちは、雑穀米を食べますが、苦痛が多かったと経験者が話している。 食事が不足して苦痛を受けたという証言がないことを見ると食事の洋銀のそれなりに十分だったようだ。 ご飯が残ったら残りのご飯を利用してお酒を醸して飲んㅆダダという。 当然お酒を作る
のはソヨンソ規則に違反する行為だった。

収容所側は韓国人たちの好みに合った食事を提供しようと努力したというが、経験者らはそれも食事かいるのかと反問している。 タバコは、指定された場所では許された。 指定された場所にはライターがあってそこでタバコを吸うことができいた。 お風呂は一週間に2度は許可されたという。
文通はセキュリティ上の支障がない限りできる、と規定しているが、セキュリティ上の理由のために収容所長の経由しなければならなかった。 収容所長の軽油とは、内容は検閲しているということだ。 被収容者に来られる手紙が収容所のセキュリティに問題があると判断される手紙は、内容の一部を削除することができ、また手紙自体を本人に配達ができないこともでき、配達されていない手紙は退所する際、本人に支給されるかも知れず、あるいは本人に支給をしない可能性もあるということだ。 また、収容所で外に出てる手紙は内容をチェックして削除あるいは再び使わせ、もしこの規定に従わない場合は手紙を外部に発送しないようになっている。
収容所側から見れば、おとなしく言うことよく聞いていていたが、韓国に強制送還される船に乗ったらいいのだ。 しかし、日本国内には大村収容所の存在そのものを感心しに見ていない組織があった。 朝鮮総連をはじめ、他の革新的な組織である。 これらの組織と強制収容所内部との連絡は必ず阻止したかったのだ。 それでも内部の彼らの収監の実態が外部に流出したりもした。
面会は4親等以内の親戚に、あるいは弁護士などにだけ許された。 密航者の中には長期間日本に住んでいて捕まった人も多い。 このような場合は子どももいる場合もある。 家族の場合でも夫人は女子収容同人1棟、夫は2棟に、また、子供たちは母親の東に収容される。 家族として一つの垣根の中にいるが、互いに会ったことがないことだ。 やっと面会を通じて会ったできるようにした。 しかし、その面会は1ヵ月に2回に制限した。
  
自治会があった。 自治会は各棟の1階に1つの自治会、2階に1つの自治会、それぞれに2つの自治会を組織することにした。 1棟一階に定員が100人であるため、100人単位当たり1つの自治会があるのだ。 被収容者は全員は入会金の最低200円の入会金を納付して自治会の会員にならなければならない、自治会の役員任期は6ヵ月だった。 自治会役員は会長1人、総務厚生文化指導部であり、自由投票によって決定されるようにした。 この自治会は、収容所側と被収容者側の架け橋の役割をしながら、収容所側で被収容者管理を便利にしてくれる役割もした。 文化部は被収容者の手紙を受けて収容所側にあげ、収容所から手紙を受け取って各個人に伝えている。
この過程で手紙の内容を自然に読める。 被収容者が書いた手紙を読んで検閲に通じやすい内容で指導したりもして、被収容者に来られる手紙を先に読んで渡せもある。 送る手紙を自治会文化部で先に読んでチェックしてくれるから、手紙の内容は被収容者が自律的に行っていると収容所は言い逃れをすることもできる。
各自治会は売店を経営した。 売店には酒以外に被収容者の要求する物を注文することができる。 当然収容所側の許可がなければなるのはもちろんのこと、売店の販売担当も密航者被収容者が担当をした。 誠実な販売堂々が韓国に強制送還なる時苦労したとは大きな贈り物を受け取った人までいる。
被収容者には収容所内部で小遣いが必要だった。 寝て食べるのは、収容所では解決できたが、タバコ購入、散髪費などは個人の金が必要とした。 当時、収容所側でも月に1当たり最低3千円程度のお金が必要だと認めている。 小遣いは持っている人、あるいは小遣いを外部から送ってくれる人はそれなりに解決が可能だったが、お金を持たざる者はその収容所内で悲惨な生活をしなければならなかった。 お金がなくて人に南京虫を貼られなければならない人は他人がしたくない汚い仕事の当番などを引き受け、タバコ、それが得て咲く乞食のふりをすべきであったという。

これってニホンで大学教授をやっていた韓国人の文章なんですが、犯罪者の収容施設について随分とニホンとは違った考え方をしているものだと感心させられますね。
それでこのひとは今は済州島に帰ってなにかほかのことをしているようです。




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