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韓国型道路名住所命名法 あれから10年

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地番住所は日帝残滓、でも道路名住所が定着するには30年はかかる

移行期間もあったけどずいぶん前に過ぎちゃったし
鳴り物入りの道路名住所法施行も”ニホン式住居表示”に慣れすぎちゃってもぉ


イメージ 1[NEWSミーナ]道路名住所は法では2007年に法が実施されました。 その次に公共機関については2011年から使用を義務化しています。 その時から道路名住所が事実上、法定の住所にする告示が来たのです。 そして私たち一般国民を対象にしては2014年8月1日から全面施行となっていましたが。 これが義務化がうまくいかなかったとみえて、そのまま公共機関だけが使って、国民はわかってて書かない。このような状況になってしまうのです。

このあいだの4.13総選挙選挙当時にはまた、道路名住所が選挙区画定とか、投票とか。 この選挙運動がすべて道路名住所ではなく、過去の地番住所をそのまま使ったんです。 そんなになった理由は、今現在の住民登録上の人口関連統計が、地番住所、以前のままの邑面洞をもとにしてこの住所が作られたものです。 そうしているから選挙区もそれによって画定になります。
それで法律的には道路名住所を書くようになっていますが、今回の選挙では過去の地番住所を書いたのです。


道路名住所がうまく定着されていると見ることができるのでしょうか。

この前まで、政府が発表した統計を見ても、その利用率が70%程度に過ぎず、実際には宅配など、同じアドレスを扱う分野でも利用率が10%、20%程度になるという統計が出ていました。 国民らはたいていまだも分かっていますが、実際に使う割合は、さらに少ないものと調査が出ています。


それでは私たち国民が新しいアドレス方式にはもっと積極的に参加しなければならないのでしょうか。 これ、どう解釈すればいいですか。

べつの面で見れば、強制施行をしていたら多分参加率とか利用率はさらに高くなったかもしれませんが。 強制施行ができなかった理由は従来の住所についてあまりにも慣れ、また、全てのことが依然として従来の住所をもとにして住所を使う場合が多いから、むしろ彼による混乱が大きくなる可能性もあるためにこの強制施行もできない。そんなところになったのです。
そうしているから二つの住所が並列的に使用されるそのような状況でそれなりの混乱も生じて、また、使用もまともにできない。このような問題が生じるのです

事実ネット上で見ても地番住所の使用をむしろ誘導するウェブサイトも多いようです。 事情がこうだから本当に混乱したのにね。 国民の立場では手遅れな話かは分からないが、こんなことならどうして道路名住所を急いで推進をしたのか。 このようなことも少しは考えてみますが。

事実道路名住所は世界的な大流行です。 さらに、北朝鮮でも道路名住所を使用しているんですが。 それで韓国や日本が唯一地番住所を、これまで使ってきたのに。。。 事情がこうだから韓国の専門家たちとか政策決定する方々はこの道路名住所に付いて行くことがなければ、韓国がかなり後進的として残るだろうと思って。 そんなことに対する相当な強迫観念を持っていたようです。 そうして実はこの道路名住所の導入はすでに1970年代から議論となったわけです。
実際の制度準備は去る20年間やってきたものです。 その一方で、国民らが収容をきちんとしないといろいろ試行錯誤も多々ある、。 また、予算もたくさんかけましたが。 とにかく私たちの体に合わない状態で導入されているのです。

それでは国民に心情的にたくさん来て届かない理由。 どこにあると思いますか?

一旦は地番住所で都市化が早く行われ、地番住所の体系性が大きく改善されたんですよ。 ところがそのあと家があちこちに入り、順序がもつれ、このような場合が多くて地番住所の情報性が弱体化されたのです。
事実、地番住所は位置を正確に教えてくれるその長所があります。 位置というものはほとんど私たちが住んだ町と関連した位置です。

それで、地番住所は町の名で十分にそこがどこなのか教えてくれ、慣れて、韓国文化の中に深くに入ってきたのです。 そうしてみたら、この道路名住所というのは線に沿って位置を探すために私たちの体にも合わず、現実にも合わず、、韓国認識にも当てはまらないこのような限界があります。
そうするから制度としては導入されたが、使わなくて。 特に、スマートフォンとか、ナビゲーションのような位置を探すことができる機器も私たちが簡単に利用できるために。もっと新しい住所を使わない。このような状況になったようです。


特に洞に対する愛着が多く、見えたんです。 簡単に放棄できるかわかりません。

それは容易ではなさそうです。 それが一夜にして作られているのではないです。 私たち、韓半島の上に作られた町の名前で、町の歴史であり、町の文化で、認識ですので。 大体、我々の生活に深く町関連されたものがたくさん入っています。 また、我々の人生自体が町中心的な生活です。 道路中心の生活ではなく。
そして道路名自体がその地域の歴史性といろんな縁故性を表現したりしますね。 そうしているから現在、道路名住所にも道路名に過去の町の名をつけて入れているからもっとこれが道路名は線なのに、街中は面と指定されるのです。 そうしているから線の位置を探しながら、依然として私たちは面の位置を探す。このような二重的な混乱に陥っています。


はい これからも道路名住所の定着には時間がかかりそうですが。 どのくらいかかると見ますか。

私は普段に一世代もかかると観ます。 なぜなら、私が生まれて住所をそれこそ楽な住所で受け止められるまでは私は少なくとも30年がかかるとみています。 なぜなら従来の地番住所を私たちがなくさなければいけないです。 まず。その記憶をなくすべきで、生活で無くさなければならないし、その次に新しい住所を私の体に合うように受け入れなければならないのに。 無くしながら、新たに受け入れるこの過程が韓国一人が生まれて成長するその過程を見れば、そのような認知的な成長過程とかみ合っていると見ることです。 それで一世代の時間がかかるんじゃないか。 こんなに見ています。


それでは一世代の間はこんな煩わしさと混乱が続くというお話ですね?

政府が道路名住所を法定の住所に引き続き使い、地番住所を書くのもに許容する限りでは私は30年程度は軽く行くと見ています。


政府がまた、道路名住所不具合に対する補完策もまとめる。 このような発表もいませんでしたか。 改善が時間が経ったんですか?

これまで政府が努力をしなかったことはありません。 例えば、道路名そのものを住民たちが希望すれば、変えることもしてきました。 その次に特に多世帯住宅のような場合には住所が一つが付与されるが、詳細住所を付与するような措置も取られて来たんです。 その次にこのような道路案内をした案内板を多く設置して。 特に何よりも広報をとても熱心にしています。 このようななどの努力がなかったわけではありません。



ところでそんな努力にもかかわらず、依然としてちょっと時間はかかっているようで。 今、原点に再び戻ることはできないものじゃないですか。

政府は、いかなる場合も原点に戻っていかないという立場を明らかにしています。 私は、公共政策は、すでに導入されて実施になっているのが可能なら、守ることが原則だと思いますが。 これは事実上そのまま大義名分だけを守らなければならない問題ではないと思います。 韓国住所の体系というのは、国家運営の基本になるから。名分はいいですが、現実では私たちの体に合わないため、これはもう一度根本的な省察が必要だと思います。 それで国民的な目線で本当にこれが私たちの体に合うのか、なぜまた、合わないのは。 果たして地番住所を捨てなければならなかったのか、地番住所を改善できる方法は本当になかったのか。 そして道路名住所は本当に問題がないだろうか…。 このようななどを本当に根本から、最初からまともに検討していたならば、しっかりとして、そうでなければ果敢に捨てたのも私は国民的、国家的な観点では本当に重要だと見ています。



はい ところが、今の道路名住所をために使った費用が天文学的な金額だ。 このような話も出ているが。 これを原点に戻すことができるでしょうか。

これまで20年程度で準備を進めてきております。 また、これまで2011年から法定での住所に書いていますが。 1995年から2005年までは生活の住所というもので、すでに書いてきた経験もあります。 それにもかかわらず、まともにできないことです。 また、そして2007年に法を作って強制施行しているが…。 この法を作ってすることになればもっと簡単に拡散になるものと見たが、現実的にみると、そうでないです。 予算もこれまで4,000億を持ったりはしますが。 事実、二重的に住所を書くのに対する混乱が今少なくないために。過去に入った国家的な予算よりは社会的に混乱の費用がもっと多く発生しかねません。 それでこのようなものは、様々な面で比較を取るべきでは、これまで時間が過ぎ、費用がたくさん聞いたという理由一つだけ持ってこの制度を無条件に守って行かなければならないということではないように思います。


(翻訳:みそっち)



そういえば韓国では住所名が変わったんですよね、最近だと話題にもなりませんが2011年頃には、”画期的道路名住居表示、先進国では当たり前”みたいのがあったのです

さて、戦前から不法入国~不法滞在してバラックなどを建ててそのまま住み着いちゃう朝鮮人の集落というものが全国各地にあったりします。その多くは河川敷だったりしたわけですが、そこに住所名をつけたり、上水道を引いたりしたというお節介のおかげで、国有地である河川敷に朝鮮人部落が形成されてみたりしたわけです。

本来、朝鮮人は住居に対する観念には独特のものがあったようで、空き地があればかまわずそこに掘っ建て小屋を建てるという暮らしぶりだったと記録されています。


イメージ 2
イメージ 3

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道路などもびっくりですが、加藤清正が歩いたままの道がそのまま明治時代まで変わらずに残っていたのです、ビックリなのは南大門だったでしょうね。
でも、土は堆積するものですから、南大門だけでも1.6mも糞尿が堆積していたんですよ。

韓国の城門っていうのは全く機能してなかったんですよ。ソウルの観光で崇礼門に行くひとって多いと思います、あの韓国人の放火で燃えちゃった国宝1号なんですけどね。あれに大きな勘違いがあるんですよ。

じつは1.6mも下に建立当時の敷石が発見されたのです。この1.6mっていうのは自然に何かが積もって溜まったんですよ、そうなると扉の開け閉めが出来る訳ありませんね。 そのとおりなのです、ニホン総監府が国宝認定したときの崇礼門の門扉は半ば埋まっていて開け閉め出来る状態ではなかったのです。

イメージ 4

▲掘り出された地下遺構を見学者に披露している、最下層から石畳が発見されたこともあり建立当時の地表面は今より1.6mも低かったことになる



イメージ 3

当時の朝鮮人は路上にうんちという習慣でしたから、おそらく1.6mのほとんどがそれだということです。(実際にソウル中心街の地層からは広い範囲で寄生虫卵が発見されているのです)

1.6m埋もれた南大門の秘密にもお答えします

人糞が積もってできたソウルの街並み
 
 
最近になって、あちこちの大規模な工事で、それに伴う考古学の発掘調査が行われたソウル四大門の内側の事情は十分に衝撃的な事実を知らせてくれる。
シン·ドンフン庶民教授などが、これらの発掘地域で採取した土壌試料を分析した結果、光化門の前から世宗路につながるソウルの中心部が一面糞で覆われていたという事実が明らかになったのだ。朝鮮王朝実録などの古文献に漢陽の深刻な汚染状態が記録されたが、土から抽出された寄生虫の卵を実証的に明らかになったのだ。



崇礼門(南大門)復元の過程で石造りの部分、地表面を掘ってみたところ1.6mも下に埋もれた石畳の遺構が見つかったのだという新聞報道があったのは2010年のことだ。
これはまた、言いかえるなら後世になり建設当時に比べて通路部分の床部分が1.6mもかさ上げされたということになる。
当時の大人の身丈にも相当する1.6mである、ところが朝鮮王朝実録を精査しても崇礼門の記述はほんの数行しかない、おおまかに建立された1396年と再建された1447年、1479年の記述があるだけだ、その中には到底理解し得ない事実とされる誤認も数多く発見されている。
その後、崇礼門は慶長の役では豊臣軍が入城した際に加藤清正が凱旋門として使いその後は歴史の舞台から遠のく時代が続いた。 
 
ではなぜ崇礼門の通路は1.6mも高くされたのだろうか、またその工事はどの時代に行なわれたのだろうか。
崇礼門の歴史から見てゆこう 崇礼門は1396年(太祖 5年)に創建された。1447年(世宗 29年)と1479年(成宗 10年)に修復工事がおこなわれている。 それだけである。 
 
時代背景から言えばニホンでは南北朝時代の終わり頃にあたる、その当時朝鮮ではその後500年余りも続く李氏の時代が続いた。崇礼門は王城の正門として強固な石垣とともにつくられたがその結果、国の財政はわずか50年余りで疲弊しその後、全く顧みられることも無く500年ものあいだ放置されてきたのだろうか。 
 
崇礼門が火災で焼失したのは2008年のことだったが、その火災焼失より前の2005年頃から崇礼門の城郭構造の実地調査が行なわれている(城じゃないけど石垣など全部の構造てことで城郭構造ね)
 

 
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▲説明版には1.6m下の石畳と電車開通で埋められたとある
 もちろん電車開通前の写真を見ればすぐにウソだと分かる。
2005년 11월 숭례문 석축 하부에 대한 시굴조사 결과, 현재의 지반보다 약 1.6m 아래에서 석축의 지대석, 성문의 지도리석(확석), 박석이 발견되었다. 이와 같이 숭례문의 통로 바닥이 높아진 원인은 19세기 말, 전차가 숭례문의 홍예를 통과하게 되면서 성문 구조에 대한 손상을 최소화하려는 목적으로 박석 위에 진흙다짐을 하고, 전차 선로를 구성하기 위한 것으로 판단된다
 
 
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▲建築当時の地盤から500年間に堆積した生活のすべてがよくわかる写真、寄生虫卵の痕跡が見つかったのがまさにこの地層だ。
 


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 ▲朝鮮時代にはなかった南大門の扉は1897年に再現されたが軽便鉄道開通と同時に再び開きっぱなしになった? (写真は燃え残った門のとびら)

◇ ◇ ◇


っというわけで、除夜の鐘はニホン文化⇒韓国でも除夜の鐘を鳴らす⇒ニホン文化の伝来前は城門の開け閉めの合図だった⇒城門の門扉は開けっ放しだった。ということです。

そのほら、城門の開け閉めならお役人の仕事でしょ、ところが朝鮮時代の半ば過ぎからその役職が無くなったのです、民営化するわけでもないし門の外側はスラム街じゃないですか。つまり清と戦争して負けた朝鮮は、城門や宮殿の修理は清政府の許可を得ること>>>っていうことを忠実に守っていたのです。だから300年も荒れ放題だったし変な人がたくさん住み着いちゃったんですね  あひゃひゃっ


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▲1894年イギリスの外交官ジョージカーソンの撮影した崇礼門のようす

 

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▲1890年代といわれる写真、当時でさえ南大門は外国使節団の利用する正門ではなく宮殿から遠く離れたところに残る朝鮮時代初期の遺物だった。

※宗主国中国からの使者でさえ宮殿から遠く離れた迎恩門そばの迎賓館までしか近寄らなかったみたい






京城府庁舎建設予定地図

今の光化門通り(世宗大通り)なんて行き止まりだったんだからね

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水色部分に道路を造ることにしたニホンが総督府建設を思いつくまでは景福宮は270年間も放置された焼け野原でした。焼け野原だったからニホンは総督府の建物を建てたのです。


まだ高宗が王だったころなんですが、現ソウル市庁から北に向かう道はありませんでした。地図で見る光化門駅のあたりの十字路は行き止まりのT字路でした、韓国の歴史ドラマなどでは超時空ヒデヨシ軍に勝った朝鮮軍の行列が南大門をくぐり景福宮のほうまで行進していくシーンがありますが。当時は道なんかなかったのです。京城府庁舎(いまは図書館)を作るときに道路が北に伸びたのです。



そういうことを韓国では教えていないので、”世界四大提督”といわれる李舜臣将軍が亀甲船でニホン海軍を散々に打ち破ったあと当時の朝鮮皇帝から剣をもらうシーンなどでは豪壮な景福宮などの様子が描写されちゃったりします。

※景福宮は釜山から平壌まで40日の小西行長が通り過ぎる前に朝鮮人の放火で燃え尽きていたし、朝鮮の王は皇帝じゃないし、貰った剣なんかも20世紀になってから急に出てきたものだし、しかも偽物でしょ。景福宮李舜臣将軍っていうのは同時には存在しないのです。





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